Scribble at 2026-04-09 18:19:37 Last modified: 2026-04-10 07:08:46
Recent critiques have cast doubt on the viability of probabilistic measures of explanatory power. We respond by developing a coherence-based family of measures that sidesteps these challenges. Rather than assessing explanatory power solely by how well a hypothesis accounts for the evidence, these measures evaluate how well the entire explanatory package, including multiple explanantia, coheres with the explanandum compared to how well it coheres with its negation. We show that this approach accommodates key scientific judgments while preserving the virtues of a probabilistic framework.
「説明力(explanatory power)」という言い方を、少なくとも翻訳の文章で見かけるようになったのは、それほど昔のことではなかった。僕が大学院へ進んでからのことだったという記憶があるから、まだ使われ始めて30年程度だろう。ただ、統計学でも使われるようなので、ひょっとすると統計学では更に古くから使われてきたのかもしれない。なんにせよ、西部邁のレトリックじゃあるまいし、語源の話はどうでもよい。僕は、何度も言っていることだが人類史スケールの保守というコンセプトを掲げている思想家なので、語源の話をいくらしても、それは事の重要性や物事の本質を現代まで運ぶ「乗り物」ではないのであって、たいていの「伝統」や言葉の変遷なんてものは物事の是非や本質とは大して関係のない、いい加減なものである。
それにしても、説明力などと言っていながら、それがどういう「力」であり、どのように強いとか弱いと判断できるのかということについて、実は科学哲学で真面目に議論された形跡はない。確かに、科学哲学には「説明理論(科学的な説明の理論)」という大きなトピックがあって、いまだにごちゃごちゃと認知言語学や社会心理学や文化人類学の素養すらない連中が記号論理学とお好みの科学史の知識だけで細かい議論をほじくり返しているわけだが、哲学的には殆ど成果が出ていない不思議な研究分野だと言える。僕も、ファン・フラッセンの『科学的世界像』を読んでから、暫くは色々な論文や本を読んだし、恩師である森匡史先生が説明理論について書こうとする論文を作成するためのサーベイ(文献や関連する論点の予備調査)を博士課程の学生として担当したこともある。嫌味な言い方かもしれないが、どこの国でも有能な学生というのは、こうやって実質的に研究助手や助教授レベルの作業を大学院でやるのである。しかし、かたや統語論的な論理構造の研究というものは、ファン・フラッセンが指摘するように自己目的化した些末な話題へと発散してしまい、殆ど哲学的な意義がなくなってしまった。そして、ファン・フラッセンが提案した意味論的なアプローチやプラグマティックなアプローチも、個々のモデルにふさわしい科学史のケース・スタディや、殆ど知識社会学の研究に思えるような実証研究になってしまった感がある。どちらも、もちろん無駄な研究でもなければ無意味なことをやっているわけでもないが、少なくとも哲学の研究とは言い難いものになっている。
その理由の一つとして考えられるのが、そもそも説明として説得力や説明力があるなどと言っている場合に、それが何のことを言っているのか明快ではないということだ。そして、説明が説明として成立するためには統語論としての形式だけではなく、文章だろうとなんだろうとコミュニケーションの媒体に置かれた表現として伝達され理解されなくてはいけないという条件が必要である。要するに、説明というものは最初から哲学(だけ)の話で済むわけがないのだ。
さて、このような前置きをしておいて上の論説をご紹介するのだが、著者のステファン・ハルトマンとボルート・トルピンは、科学的説明の質を評価するための新しい確率論的アプローチを提示している。従来の説明力に関するあるなしの尺度は、主に証拠が仮説によってどれほど確率的に高められるかという「尤度(likelihood)」や「逆方向の確証(reverse confirmation)」に基づいた手法が主流だった。これは、因果関係の哲学においても probabilistic causation における「原因」の条件として、結果が起きる確率を引き上げることだと言われてきたことにも通じる。しかし、こうした従来の手法は、複数の仮説が証拠を論理的に含意する場合に、それらを区別できないという問題(先日も取り上げた underdetermination などの問題)や、時間的に近い原因を遠い原因よりも常に優先してしまう偏見、そして複数の原因が負の相互作用を持つケース(因果関係の哲学では "pre-emption cases" などという)を適切に評価できないといった深刻な批判に直面してきた。著者たちは、これらの問題を解決するために、説明のパッケージ全体がどれほど調和しているかを評価する「コヒーレンス(整合性)」の概念を導入する。このアプローチの最大の特徴は、説明する項(explanans)を単一の論理積に押し込めるのではなく、複数の要素からなる集合として扱う点にある。特に、本論文で中心的に擁護されている特殊な指標は、説明される項(explanandum)と各仮説の間の適合性だけでなく、仮説同士が互いにどのように支え合っているかという構造的な整合性も評価に含める。著者たちは数学的な証明を通じて、この新しい指標が二つの尤度不等式という妥当な原理を満たしつつも、先行研究で指摘された反例を回避できることを示している。例えば、時間的に遠い原因を説明に含めることで全体の整合性が向上するケースや、負の相互作用を持つ複数の要因をあえて併記する方が、一部を隠蔽した単純な説明よりも強力であると判断されるケースがあることが証明される。そして結論として、このコヒーレンスに基づくアプローチは、確率論的な枠組みの利点を維持しながらも、実際の科学的な推論における複雑な判断基準をより正確に反映できる柔軟なモデルを提供する。これは説明力が単なる確率の引き上げという作用に還元されるものではなく、要素間の構造的な適合性に深く依存していることを示しており、最善の説明への推論(inference to the best explanation)やモデルの比較評価といった科学哲学の重要な課題に新たな理論的基盤を与えると期待されている。
まず思うのは、"explanatory coherence" というアイデアそのものは昔からあるということだ。ポール・サガートのような研究者が公にしている幾つかの論文からもわかるように、説明として評価するときの基準として整合性を指標にすることは、別に本論文の著者らが発見したり考案したアイデアではない。寧ろ、科学的説明の理論に関する数多くの論文を Carl G. Hempel や Richard Bevan Braithwaite らの古典的な著作から読んできた僕にしてみれば、「何をいまさら」という印象が強い。とは言え、サガートの議論は(科学哲学の入門書に LISP まで取り入れていたくらいの人物なのに)かなり雑なものであったから、数学的に精緻な定式化を本論文で与えていることは一つの成果だ。