Scribble at 2020-04-02 11:29:39 Last modified: 2022-10-03 09:00:30

今日は珍しく、天満橋を渡ってから堂島川の北岸を通って出勤した。この経路を通ると、通勤時間帯に難波橋の北詰では頻繁に見かける光景がある。それは、阪神高速1号環状線から堺筋へ降りてきた車が自分の方に向かってくると分かっていながら、赤信号で横断歩道を突っ切ろうとする自転車があり、車のドライバーは何度もクラクションを鳴らしては《自転車が渡るのを仕方なく待つ》という奇怪なシーンだ。もちろん横断歩道を渡っている自転車を車が当然のように跳ね飛ばすわけにはいかないのだが、自転車に乗っている人間はクラクションを鳴らされても急ぐことなく平然と通行している。そして、非常に不思議なことだが、その大半は自転車の前や後ろにチャイルド・シートや巨大なカゴを据え付けている。

こういう光景を何度も眺めると、もちろん朝晩に子供を保育園などへ送り迎えるという日課がハードであることは分かるにしても、無茶な通行はしない方がいいという趣旨では同じなのだが、二つの異なる態度が現れやすくなる。一つは、「そんなことをして、もし自分が死んだら残された子供が可哀そうなので、無茶な通行はしない方が良い」という寛容なコメントとして表現できるし、もう一つは「そんなことをして、子育てのためなら何をしても許されると思っているのか」という厳しいコメントとして表現できる。実際には、これらはどちらも《無茶な通行はしない方がいい》という意見としては同じ意味や趣旨なのだが、やはり表現としてはぜんぜん違う。そして、僕は《これらのどちらかが良い》という比較は間違っていると思う。

得てして、民主的で、リベラルで、やさしぃ(キャバ嬢の発音で語尾も上げる)ことが人間関係や《社会》とかいうグロテスクな作りごとにとって大切だと思い込んでいる知恵の足りない人々は、前者の寛容な表現《こそが》社会生活を良好に維持するために必要だと言い張る傾向がある。そして、何らかのコンプレックスを抱えているような、自分が得体のしれないことがらによって一定の地位を保証されていると思いたい人々、端的にはネトウヨと呼ばれる無知無教養な連中は、後者の厳格な表現《こそが》社会を美しく健全に維持するために必要だと言い張る傾向がある。そして僕に言わせれば、どちらか一方を過剰に強調するということは単なる自意識の話でしかなく、合理的かつ正当な社会科学の理屈に従うなら、これらは最適な状況で組み合わせたり使い分けることが望ましく、寧ろその状況なり条件を議論することが社会生活や人間関係の素養を高めることにもつながると考える。

条件に応じて発言や態度を変えることを、旧来の思考では「一貫性がない」などと表現して、いわば simpliciter な態度を取ることが望ましいと評価してきた。しかし、それは単に視野が狭く見識や教養に劣る人々、つまりは凡俗どもに最適化するためのお膳立てにすぎない。そんなことを何かの優越した価値であるかのように吹聴したり描いてきたのが、多くのメディアや出版社や新聞社の愚にもつかない思想書や文学作品や記事の山なのである。しかし、少なくとも大人であれば誰でも分かると思うが、《世の中はそれほど簡単にはできていない》。つまり、このようにありふれたフレーズですら、物事は条件や状況によって良し悪しや為すべきこと為すべきでないことが複雑に変わるものだという事実を伝えているのであり、この程度のありふれたフレーズですら、オウム返しに分かったような気で何も分かっていない人が大勢いるという事実をも、皮肉なことに伝え続けていると言えるだろう。

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