Scribble at 2023-03-11 00:21:21 Last modified: 2023-03-11 23:19:16

社会科学者とかによくいるタイプで、未開の集落とか「後進」国とかの伝統やら風習やら価値観やらを拾い上げて、そういう集団や地域や国にも、すぐれた価値観があるとか、素晴らしい伝統があるとか言っちゃうんだよな。でも、それって結局は先進国の尺度であれ、あるいは他の尺度を持ち出すのであれ、しょせんは「すぐれた」価値観とか伝統とか文化のある集団とか地域が素晴らしいってことを繰り返してるだけじゃないのか。

丁寧に見たら、どういう地域や国や集団にも独自の価値観とか風習とか文化と言えるものがあるかもしれない。しかし、基準とか尺度を相当なレベルで厳しく設定してみたら、場合によっては「先進」国も含めて多くの場所で暮らしている大半の人々は、凡庸で、特に見る価値もなく、しょーもない暮らしをしてるって可能性もありえるわけだよ。

でも、それの何がいけないのか。

人が何かしら重大な伝統の一部を担っていたり、クリエーティブだったり、世界で一つだけの花みたいな価値をもっていてとか、僕は保守主義者として、そういうことを理想とするような社会の理解の仕方というのは信用に値しないと思う。それはつまり凡庸な人々の暮らしや仕事ぶりや風習に下駄を履かせて、いかにも価値のあることをしているかのように過大評価しているだけのように思う。僕は常々、「凡俗」とか「凡人」という言葉を使っているけれど、凡庸であること自体を何か悪であるかのように見做したりはしていない。地球の地表に空気が存在すること自体を「悪」だと見做す価値観が、人の社会では健全かつ妥当な理屈として成立しないのと同じく、人がごくごく平凡に生きること自体を「悪」だと見做して、何か価値のある人生を送らねばならないなどとフジテレビのドラマに出てくる主人公のように生きることが人の人生の「正しい」あるいは「理想的な」姿であるかのような法螺を吹くも同然の価値観を前提にしている社会科学など、僕に言わせれば悲惨とも言って良い欺瞞の実例でしかない。

もちろん、何も意欲や理想や目標をもたずに生きていてよいなどと言っているわけではないし、僕らのような哲学者に全てを委ねよなどと言っているわけでもない。何もしなければ劣化するし衰退する。それは philsci.info でも述べた。でも、それが「いけないこと」なのかどうかは自明ではない。決めるのは、やはりわれわれ哲学者ではなく、みなさん自身であろう。つまり、仮に僕らが何らかの基準とか価値観を提案したとしても、その是非を決めるのは、やはり凡庸だろうと何だろうとあなたがた自身なのである。

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