Scribble at 2024-04-23 18:01:24 Last modified: 2024-04-23 18:03:03

さきほど『長寿時代の医療・ケア』(会田薫子、ちくま新書、2019)という新書を読了して、改めて PHILSCI.INFO で掲載している thanatophobia とのかかわりを考えてみたのだが、やはり僕には自分自身についての第一人称的な(このような表現すら相当に怪しいわけだが)不安や恐れしか理解できない。

もちろん other minds という概念を否定する意図はない。たぶん、あなたにも心はあろうし、たぶん、何かを怖いと感じたり不愉快だと感じる心の働きだとか現れもあろう。しかし、それがあなた自身の第一人称的な現れにおいてどうなっているのかは、僕には理解不能である。なぜなら、その理解の必要条件と言える同一性の条件が分からないからだ。僕が感じてるしかじかの感情と、あなたが感じている感情とが同じであると言えるための条件はなんだろうか。たいていの実生活においては、それは言葉が通じるかどうかという、非常にあやふやで雑な基準あるいは習慣に誰もが従っている。僕ら哲学者ですらそうだ。でも、それがたいていの場合において実は嘘だという感覚は、哲学なんて知らなくたって多くの人が実感している筈である。

仮に、僕の脳神経細胞の働きを記述したデータと、他の誰か(実は過去の僕自身でもいい)、たとえば戸田山和久氏の脳神経細胞のデータとで何らかの条件なり基準から言って形式的に同じあるいは同型あるいは相同などと言えるなら同じであると言われたとして、それが本当にそうなのかどうかを僕が検証する経験的な手立てはない。だって、僕は僕自身の現れしか経験できないからだ。What Is It Like to Be TODAYAMA Kazuhisa という問いの答えが機能主義的な記述で十全であるかどうかを経験あるいは観察に頼らない手段で僕自身が納得できる論証がない以上、それは無理だ。

ということで、冒頭で紹介した本のテーマである終末期医療や尊厳死というものについて、多くの国々では「自己決定」というアイデアを更に展開させて、医療従事者や家族も含めた共同体としての意思決定というアイデアに移行しているというのだが、もちろんいざ親であれ自分であれ入院してから話し合いを始めましょうというのでは、正直なところ十分な時間など確保できない場合が多い筈だ。しかし、この本で紹介されているように、いまも書店に並べられている「終活ノート(エンディング・ノート)」というのは、本人に強い不安や負担がかかるため、こういうものを無料で手に入れたり記入方法を自ら習いに行った人でさえ、実際には半数も利用せず、また治療方針を誰かと語り合うために利用する人はいなかったという。しばしば、自分自身が病気に罹患してみて治療や医療の何かが初めて分かったという主旨の本を書く医者がいるように、put yourself in other's shoes とは言うものの、それがその人の靴であるという確証を得るための基準は分からないし、本当に靴を履いているのかどうかすら定かではないという場合も多いだろう。

ということは、やはり「僕は僕の理解では自分自身についてはこう思う」と言うくらいしかないのだろうか。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook