2018年07月06日に初出の投稿

Last modified: 2018-07-06

実家で1982年の手帳を見つけた。1982年は、僕が中学1年生から2年生だった年にあたり、前年の1981年12月25日から12月28日まで、枚方市の交北城之山遺跡の発掘に参加させてもらっていた。その当時は東大阪の東花園に住んでおり、発掘現場へ行くには近鉄奈良線で鶴橋駅へ行って国鉄大阪環状線(JR に民営化したのは1987年)へ乗り換えて京橋まで行き、今度は京阪に乗り換えて枚方市駅まで行った。手帳には「向こうに行くまで1時間半かかる」と書いてあるが、交北城之山遺跡に推定された場所(現在の枚方市立山田中学校)までは枚方市駅から 2 km くらいの距離があるので、そこまではバスで「田ノ口」という停留所まで通っていたようだ。

そして、年が明けて1982年になると、1月3日は父の実家がある生野区の家へ新年の挨拶に出向き、一同で祖母に顔を見せた後は 15:30 に退去して、タクシーで難波まで移動してから「丸十」という寿司屋で腹いっぱい寿司を食べるのが、その当時の当家で正月にやる恒例行事だった。ちなみに元旦と1月2日は発掘の感想文を書いたり、中学の文科系クラブ発表会での発表内容を考えていたらしい。そして、1月4日から発掘の手伝いを再開して1月9日まで続けたようだ。もちろん中学生にユンボなど運転できないので、さほど重要でもなさそうな遺構をほじくりかえしたり、出てきた土器類の洗浄が主な任務だった。そのあいだにも、1月6日は飛鳥、1月8日は法隆寺と、色々な場所へ行っている。

中学の始業式は1月11日の月曜日だ。授業に関わる書き込みは、なぜか国語に関わる内容が多い。谷川俊太郎の「生きる」が題材だったとか、翌日は井上靖の「走る」だったとか、これは恐らく国語の授業ではなく、中学1年生だった時の担任が中西さんという国語の教諭だったので(ちなみに「ハト」というあだ名だった)、確か彼が終礼時間に作品を一つずつ紹介していたため、そこで取り上げられた作品を手帳に記録していたのだろう。そして、1月25日には帰りに J&P で頭金 8000 円という記述がある。これは何を買ったのだろうか。

2月に入ると、2月19日に文科系クラブの発表会があったらしく、恐らくは交北城之山遺跡の発掘について報告したのだと思う。その後、まだ阪田寛夫とか大木 実とか芥川龍之介とかの名前が書かれているのだが・・・2月27日に「皆があまり漢字ノートを提出しないので、ハトが恐ろしいほどイカッテ成績を下げると言いだした」と書かれている。確かに、僕の母校では生徒が無意味と判断したら宿題だろうと授業だろうと何でもボイコットするような校風があった。教師が私語をしている男子に「出て行きなさい!」と言ったら、生徒全員が教室から出て行って一人もいなくなったり、教師にとっては今で言うモンスターチルドレンやモンスターペアレント揃いだったろう。なにせ、関西の医師会から実業界から行政まで色々な分野で「活躍」している親がいて、親の半分は東大か医大を出ているとか、そういう学校だ(うちはそうではない)。教員の方も、教育大だけでなく国公立大の修士くらいは出ている人が多かったように思う。教師が成績を下げるだの内申書がどうとか言ったところで、偏差値さえあればどこにでも入れると思っている連中には全く効果が無い。

その後、3月に入っても3月22日から3月31日にかけて、再び交北城之山遺跡で発掘の手伝いをしている。

4月に入ると中学2年となっているため、次の担任などが書かれている。2年のときは柳本という数学の教師が担任だった(「チラ(リモト)」というあだ名があった)。2年になってからの記載に特筆するべきものはないが、日曜日になると頻繁に大阪や奈良の博物館を回って考古学関連の展示会や講演会に参加していたようだ。

手帳には書かれていないが、この頃は僕個人の心持は非常に安定した時代だった。家計がどうだったのかは本当のところは分からないし関心もなかったのだが、子供としては不自由なく暮らしていて、特に受験勉強が必要な中学時代でもなかったし(そのまま高校に上がれた)、それなりに勉強していれば問題はなかったから、考古学の勉強をしたり、コンピュータで遊んだり、アニメを観たり(当時は『マクロス』が放映されていた)して気ままに過ごしていたと思う。

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