2018年10月05日に初出の投稿

Last modified: 2018-10-05

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「半分、青い。」痛々しすぎたのに最後まで見続けることができた理由

『純と愛』は超能力を持ち込んでしまった荒唐無稽なストーリーだったが、『半分、青い。』も相当に色々な要素を詰め込んだストーリーだった。僕が自分から好んで朝ドラを観るようになったのは『ひまわり』からだと思うのだが、それから数多くの朝ドラを観てきて、自分自身とほぼ同じ世代(僕は鈴愛の3年前に生まれた)の人物が描かれているストーリーは初めてだったので、それなりに興味深く半年を過ごした。僕も高校を出て進学せずに鈴愛と同じく東京へ出た。鈴愛は漫画家のアシスタントとなり、僕は CD カタログの雑誌編集者となったので、どちらもバブル経済の恩恵を直には受けていない(ただし、仕事がいくらでもあったという状況そのものは、どういう仕事に就いていてもバブル経済の恩恵は間接的に受けていたとは言えるだろう)。2018年現在、僕は50歳で小さな会社の役職者をしているが、恐らく退職金など出ないし貯金も殆どないので、高齢者となってからは自宅に積み上げた大量の本を読むだけの人生になるのかもしれない。連れ合いとの生活を一定の水準で維持する方が大切に決まっているのだから、当サイトを運営するための小遣いが残っているかどうかも分からないし、そもそも必要かどうかも実際のところ自分で分かっていないし決意もしていない。そして、3歳ほど年下の鈴愛と律は、2018年現在でも都内でせっせと何か「ものづくり」を続けているのだろうか。

そうして上記の記事を読み進めてゆくと、「このドラマの設定である1971年から今年2018年までの年表を眺めてみると、まさに『半分、青い。』で描くのはセクハラも、パワハラも、同等待遇の問題も解決できなかった50年なのだ」と書かれているのを読んで、なるほどと思った。そして、僕らはそろそろ「解決できなかった」責任の一端を担っていたと非難される側の年齢にさしかかろうとしている。つまり、若い頃には提案したり戦わなかったかもしれないし、それなりの立場になったり人の親になった年齢にさしかかっても、周りに感化させたり説得したりしつけたりすることを怠ったかもしれないし、自分が何かを決裁したり判断できる機会に正しい決定ができなかったのかもしれないのだ。そして、ようやく最後までドラマを観てきて、なんだ、自分たちも結局のところ自分「たち」のことしか考えていなかったからこそ、自分たちが訴えてきた何ごとかを自分たち自身も実現しようとしてこなかったんじゃないかと反省することになる。

もちろん僕は反省して、会社でも「金さえ儲かればいいというわけではない」とか、「金すら儲けられないクソみたいな経営学のスローガンや学説を振り回すな」とか、「形式だけ整えても会社は良くなったりセキュリティは保てない」とか、チャンスがあれば経営会議でもチャットでも言ったり書いたりはしている。これらは建前には違いないが、建前を建前として実現できる才能が僕にはあるし、実際にそれを認証の監査でも受託案件の実務でも成果としてかたちにしているという自負くらいはある。

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