2019年09月24日に初出の投稿

Last modified: 2019-09-24

「言葉狩り」という言葉がある。そこで狩られる言葉というのは、簡単に言えば、部落差別や性差別や人種差別の意図を含んでいたり、歴史的な事情ゆえに言葉として差別の意味はなくても不当な侮蔑に使われてきたがゆえに忌避されるべきと考えられているような言葉のことだ。マス・メディアのいわゆる「放送禁止用語」も含まれる。

たとえば、「女みたいだな、お前」という表現には、女性のような振る舞いや考え方という主旨しかないが、どうして「女みたい」なのかとか、「女みたい」ならどうなのかという含意を糺せば、「弱々しい考え方だから」とか「穏健な考え方は女みたいだ」とか「女みたいに弱々しい考え方は良くない」とか、何の合理的かつ正当な根拠もない思い込みや断定が隠れている。それゆえ「女みたい」という表現は、女みたいであることが良くないという思い込みにおいて不当であり、穏当な考え方が良くないという思い込みにおいて不当であり、それら(女みたいであることと穏当であること)を根拠もなく結びつけるという思い込みにおいて不当であり、更にはダイバーシティとも共通する観点から言えば、「女みたい」な特性なり本質が何かあって、それを知っているとか分かると思い込んでいる点でも不当であると言えるだろう(こういう場合に、やれ子供が産めることは女性の特徴だとか、男性と違う身体の構造があるとか、生物学的・生理学的な基準なら何かあるという《ヘタレ科学》を持ち出す人も多いわけだが、そういう人たちは子宮を何かの病気で切除した人は女性なのか男性なのかとか、子供を産めない体質の人はどうなのかという点は考えない。「女」とか「男」が社会的・歴史的な観念であることは、既に現代の知見では常識の範囲であろう)。

こういうわけで、「女みたいだな」という表現が幾つかの理由で不当であることをもって、この表現を使わないようにしようと指摘できる。実際、公の場でもテレビや新聞などのマス・メディアでも、「女みたい」とか「女の腐ったような」といった表現は殆ど、それこそ自民党の地方議員ですら口にしなくなった。また、ご存知のとおりアメリカでは "political correctness" という観点で、不適当と見做せる言葉を言い換えるよう、フェミニストや黒人団体などが圧力をかけることも多いし、リベラルな人々がマス・メディアの内部でフィルタリングしている事例もある。

このような状況にあって、「言葉狩り」という言い方で、言葉の言い換えに反対する人々もいる。まさしく、「言葉狩り」という言葉そのものが、魔女狩りと同じく不当な弾圧だというニュアンスで使われており、フェミニストや黒人組織や部落差別解消団体が、自分たちの提案や訴えを自ら「言葉狩り」と表現することはない。「自主規制」などと言われたりすることはあるが、それはマス・メディアの用語でもなければ、差別的な表現を改めてもらいたいと訴える側の言い方でもない。そもそも、差別を解消したいと考えている側の理屈として、言葉だけ置き換えたらいいというわけでないのは殆ど自明であり、どうしてそのような表現を使うのかという趣旨の方に着目してもらわない限りは何の解決にも至らないのである。したがって、言葉の置き換えに反対する人々が「言葉狩り」という言葉を使うのは、差別を解消したいと考えている側の人たちが言葉を目の敵にしているかのような印象操作をしているのと同じであり、「言葉狩り」という言葉の使い方自体が不当であると言いうる。

僕は差別に反対する何らかの団体や思想に与しているわけではないが、差別に抵抗する活動や PC について誤った印象をばら撒いている人々というのは、かなり悪質なミスリードをやっていると思う。それに、そもそも「言葉狩りはいけない」という議論には殆ど正当な理由がないのである。

第一に、言葉狩りは言語統制だという、SF 小説家やディストピアのような空想社会が好きな芸術家が現実の世の中を見ていないことでも分かるように(まともな SF というものは現実の物理学を勉強したり、現実の社会を知ることでこそ優れた作品が書けるものだと思う。そもそも社会が規制だらけになっている姿というディストピアのステレオタイプしか思い描いていないという時点で、そういう人たちに SF を語る上での想像力が欠落しているのは明らかだ)、マス・メディアが放送禁止用語のような規制を設けているのは、総務省からの圧力が原因ではないし、いまでは殆ど社会運動の団体が糾弾活動することもないので、そういう経験をもっていて恐れているマス・メディアの社員も殆どいなくなっている筈だ。つまり、差別的な表現が歴史的な事情などで使われてきたのと同じく、言葉にかかわる自主規制も歴史的な事情でよく考えずに自粛されてきたと言える。そして、そういう無自覚な作業として言葉を言い換えるようなことでは何も解決しないという意味で「言葉狩り」が良くないという点においては、言葉の言い換えを求める方も、言葉の言い換えを強要してはいけないと批判する方も、恐らく一致するのではないか。

第二に、言葉を言い換えると表現が乏しくなるという議論には何の説得力も根拠もない。筒井康隆の作品は、どう言葉を言い換えようと、たぶん下らないものは下らないままだ。或る作品において、特定の言葉の意味合いや歴史的な経緯も含めて、その言葉を使うこと自体に重大な効果があると作家自身が論証できた作品など存在しない。これまで差別的な表現が文学作品でそのまま残されてきているのは、せいぜい「差別されている状況をそのまま差別として伝えるために、表現として残す」という理由があるからだ。要するに、差別という事実を伝えるために表現として維持するという目的だけしかない。そして、そういう目的で使っているわけでもないなら、言葉を維持することで何の効果があるのか誰にも分からない。そして、そういう表現を作家が使ったという事実を記録として保存することが作品の本質でもないなら、そのような表現に固執する文学的な理由は何もないであろう。自分のメモ書きを正確な記録として出版したいという傲慢な理由があるなら話は別だが。だいたい、たかだか数千ていどの言葉を他の言葉に置き換えたくらいで、言語としての表現力が失われるなどというのは滑稽な空想である。その程度で言語表現が乏しくなるなら、もともとそんな言語は語句を構成する働きが貧弱な原始的言語であるか、あるいは言葉を使う当人において語句を構成するための概念が少なく貧弱であるかのどちらかが理由であろう。もともと、たいていの言語は使うヒトの側の認知能力に重大な制約がない限りは、文字も単語も語句や文の組み合わせも無数にありうる筈である。或る言葉を使うべきでないと決まれば、それを越える表現を案出して悪いわけがないし、それをやるのが文学者というものであろう。手持ちの駒だけで棋士のようにクリエーティブな成果を出してもいいが、果たして文学者の役割とはそういうもの《だけ》なのだろうか。(もちろん俳句のように決まった季語だけを使うルールの中で創造性を発揮してもいいが、他の言語表現もそうあらねばならない理由などない。)

それから、的外れな理由として、そういう言葉が歴史的な経緯をもって使われてきたというだけで「伝統」だと言い放つ人たちがいる。それがまさしく、差別は伝統だという馬鹿げた議論へ直結してしまうことも分かっているらしいが、このような人々が実際のところどれくらいいるのかというと、僕は無視できると思う。マスコミ・出版の業界で仕事をしているライターやジャーナリストや評論家などのパフォーマンスとしては何度も出てくるものであり、こういうものは常になくならない。いちいち取り上げるのも時間の無駄であって、こうしたことを書く人々がそれこそ他の仕事では食べられないという自己証明だと見做していい。こういうバカげた議論を公に書いてのける連中というのは、それこそそんな文章によって「無能」と書かれた名刺をばらまいているようなものだと考えた方がいいだろう。

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