2018年06月02日に初出の投稿

Last modified: 2018-06-02

日本では、それこそ仏教が伝来した頃から宗教は政治と密接に関連していたわけで、在家として入信していた戦国大名とか為政者の執政に口を挟んでいた坊主や神主の事例は、時代劇や小説など実例を元にした通俗的な逸話の数々で多くの人々が知るところとなっている。宗教や宗派という単位ではなく一人の人物として関わっていたのだから、こんな実例は他の国でも数多く見つけられるだろう。

為政者の側にいるのだから、そういう宗教者の大多数はもちろん保守である。革新的どころか反動的ですらなく、為政者の保身や現状肯定といった無為無作為(つまりは無能)を弁解したり正当化するための言い訳を形而上から引っ張り出してくるのに、日本ではとりわけ仏教のような宗教(の軽薄な理解をしている僧)が最適である。なぜなら、仏教を簡単に解釈すれば在世の価値観に執着しないということだから、政が上手く運ぼうとどうなろうと、結局はどうでもいいからだ。

クリスチャンはどうかと言うと、政治家に進言したり為政者を裏で操るような人物はいないとされているが、しかし政治家本人がクリスチャンという事例はある。前にも書いたが、麻生太郎(カソリック)、石破茂(プロテスタント)、海江田万里(カソリック)など、およそ宗教に帰依しているとは思えない言動の人間がキリスト教徒を名乗っているようだ。もっとも、あの曽野綾子のような人間ですらクリスチャンを名乗っているのだから、この手の伝統大宗教も人の心をどうこうするような力は、結局のところないのだろう。なるほど、それは哲学にしても本質的には同じであって、そもそも学問が人の考えを決めるのではなく、やはり発生論的に言えば知識や学問はヒトという生物種の個体それぞれがもつ認知的な所与と trait に対する心理的な牽制力になるのが関の山なのかもしれない。よって、自分自身が車を運転するかのように自覚をもって自分の心を「運転」できなければ、しょせん出雲神道だろうとスンニ派だろうと法相宗だろうと福音派だろうと、生物の個体によって特定の価値観というシグナリング機構をもつ情報ネットワークの集団において、正確かつ厳密に同じ役割の機能、つまり「愚行」という機能しか果たしえないのである。

ここ数ヶ月にわたって聖書を読んでいて、ようやく民数記に入ってヨルダン川を渡るのどうのという話にまで来ている。このイスラエルの民は、ことあるごとにモーセやアランたちに歯向かったり勝手な行動を取ろうとしたり文句の限りを言い立て、もちろん聖書でも「主」は怒りをあらわにしている。特に他の民族や部族よりも優れた人々で構成されているとも言えない、何の変哲も無いヒトの集団にすぎないように思える人々。なんでこんな、「主」の言いつけも簡単に無視するような連中が祝福されているのか。どうして「主」は自身でこれほど愚かな人々を自ら祝福するのか。聖書の中で、「主」は自らも「生きている」とモーセに言うのだが、なるほど、地球とかいう(宇宙論のスケールで言えば)瑣末な惑星・・・ただし同じ宇宙論の等方性で言えば「辺境」という概念は成り立たないのだが、そういう惑星でマネジメントの研修中ということなのか。

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