2018年05月24日に初出の投稿

Last modified: 2018-05-24

Nassim Taleb's Black Swan

こういう文書を見ても感じることなのだけれど、たとえば日本でもタレブの『ブラック・スワン』って山ほど売れたのに、それを丁寧に読みこんで批評してる人なんて、ネットで殆ど見たことがないよね。いわゆる「読書家」のみなさまが、昆虫採集した標本をワイン片手に眺めているような胸糞が悪くなる書評はたくさんある。こういう、実は字面を舐めただけの「速読家」と称する "scanners"(実は速読などというものは本を「読んで」いない、「眺めて」キーワードを記憶して勝手につなげているだけというのが目下の科学的に妥当な解釈だ)どもが日本の専門的な書評業界をはじめとして、ネットの書評ブログで小遣い稼ぎしてる連中の大半を占めている。なので、僕はそういう書評を掲載しているブログをたくさん見て来たと思っているが、RSS を購読するに値するのは 100 サイトに1サイトくらいだと言っていい。

本物のクソは肥え溜めから掬い取れば野菜を育てる役には立つが、ネットのクソは、書評している文献についての軽薄な理解や誤解や論点の取り違えが拡散するだけであって、しかもそれを補正するような「書評レビュー」とか書評ブログどうしの論争が存在しないために、誰もそういうリスクを補正できない。ウィキペディアや学者のエッセイが補正するだろうなどというのは、いまでは社会科学の真面目なネットワーク理論の観点から言ってもファンタジーに属する願望であって、それどころか学術研究者自身や学術研究を志す子供や学生がクソを頭から被ってしまうリスクの方が大きいのだ。

よって、PHILSCI.INFO でも書いているが、啓蒙というのは神保町に古本屋や出版社を立ち上げたていどで貢献できると期待することなどできないと言い得るていどに、本当は絶望的な活動なのである。少しでもそういうことをやっている人たちがいるだけマシだ(世の中が悪い方向へ変わる可能性が 0.5 だとすると、0.495 くらいにはできている)と言い得る証拠など、これまで社会科学として立証したり実証できた者は一人として(ウェーバーからブルデューまで誰を含めようと)いない。寧ろ、不可避的に商業主義的な歪みや人間関係や政治的な思惑が加わざるをえない出版・報道によって、世の中の情勢が悪化したと立証しうる可能性の方が高いのではあるまいか。なぜなら、世の中が「悪くなった」と評価し得る指標はかなり限られている(戦争が起きる、給料が下がる等)が、世の中が「良くなった」と評価し得る指標は、生き甲斐だの人間関係だのと不明確なパラメータに影響されやすいからだ。そして、「悪」の尺度は明白な最終地点、つまり自分自身が死んでしまうという地点で評価が完全かつ絶対かつ永久に終わってしまうが、「善」の尺度は明白な最終地点などそもそも存在しない可能性の方が(哲学的にも)確からしいと言えるのではあるまいか。

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