2018年11月28日に初出の投稿

Last modified: 2018-11-29

うんこボタンはHTTPSでサーバと通信しているのだが、サーバ証明書がミスにより期限切れになってしまった。サーバ証明書の変更に合わせてデバイスのファームウェアを定期的に書き換えるはずなのだが、そのOTA(Over The Air)アップデートもまた、HTTPSを用いるため、「詰んでしまった」という。

「うんこボタン」全品交換の理由

連れ合いに教えてもらった記事なのだが、運用とか、コーディングした後のこととか予想も準備も体制づくりもしないで「ローンチ・ファースト! いえー」みたいな、ノリで先に販売したとかなのかなぁ。会社概要を見る限りでは、セキュリティの知識とか殆どないハード屋さんのようだけど、まぁ IoT はハードにも依存するので、こういう全くサービス運営とかの知識や経験のない「ものづくりバカ」が顧客の個人情報をノリノリで扱うんだろう。

ていうか、ものづくりバカでもいいけど、フェイルセーフすら実装してないわけだから、要するに制御系の知識がなくて駆動系の知識しかないただのバカなんじゃないかな。ふつう、機械工学やってメーカーに入った人なら、いくら工学バカでも PL 法くらいは知ってるのが当たり前で、機械製品は駆動系だけじゃなくて制御系でもフェイルセーフを最初から実装しないと人が死ぬことがあるんだよ。本当に。ガキの糞くらいならともかく、電子レンジを遠隔操作するアプリとかだったら、設計を間違えて勝手にレンジが稼働し、火事で子供が焼けてしまいました、なんてことで「テヘペロ」が通用するかという話なんだよ。そういうシビアさが全く欠けてるってことは、たぶん元メーカーの技術者ですらないと思うね、この人たちって。

もちろん、不合理な参入障壁をつくるのは市場の効率や公正さや健全さからして良くないことだとは思う。IoT の是非についてはともかく、所定の目的が多くの人の利益になるなら、何かを開発したり販売することを止めることはできないのが自由経済の国家というものだろう。でも、無能が気軽に市場へ参入することだけは避けたいんだよね。僕は放射線の影響で騒いでる人たちや、別のサイトで取り上げてる津田さんのアウトブレイクとかは、一定の範囲では同感するんだよ。いくら事前確率を言われようと、自分や自分の家族がどうなのかは(当人の現状を測定できていない以上は)分からない。そういう人たちにとって、1% だけ生きていて 99% 死んでるなんて状態はありえないわけであって、死ねば当人にとって事後確率は 100% に決まってる。取り返しがつかないわけだよ。クソみたいな商品をクラウド・ファンディングごとき遊びで素人が投資して素人が勝手に作り、人の生活や生命に重大な結果が起きたら、「統計の誤差の範囲」「想定内」などというセリフで切り捨てられるとでも思ってるのかという話だよ。

僕が大学院で確率や統計の哲学をあれこれと調べていて感じたのは、もちろん統計や確率を使う推論は多くの人にとって難しいし、場合によっては誕生日のパラドクスのように直観に反する場合すらある。それゆえ、確率や統計の哲学のプロパーというのは、しばしば統計や確率を適正に使った思考なり推論なり判断を普及させるべきだと言うんだけど、僕は二値論理や従来の推論を置き換えるようなアプローチには昔から反対してきた。これは因果関係の哲学にあって probabilistic causation を議論している場合にも言えることであり、因果関係というものを認識論的な枠組みとして(つまり世界の本質的な特性ではないかもしれない)理解している者にとっては、確率的に解釈した因果関係をものごとの「リアルな分析」の道具だと言っているだけの DAG オタクは、認識論的なアプローチとしては全く哲学になっていない。ゆえに、僕はパールとかの業績を科学哲学として高く評価してる人たちというのは、ちょっと哲学者として疑問がある。彼は因果関係を分析の枠組みとして解明すらしてはおらず、単に仮定してるだけではないのか。

つまり、従来の概念は非現実的で古臭いのではなく、normative な役割がある。そして、議論していることが normative なのか descriptive なのかを取り違えたまま扱う人が多かったからこそ、なかなか議論が進展してこなかったのではないかと思う(その混乱の極め付けは、もちろんイギリス経験論の面々だ)。よって、ラッセル的な切り捨ても、昨今の DAG への回収も、どちらも哲学的には同意し難い逸脱だと思う。そして、統計的な思考なるものさえできるようになれば誰でもハッピーみたいな御託をばら撒いてる一部の自然科学者や IT 業界の人間は、もうこれも昔からあるセリフだろうと思うけど、数学的な理論としての確率論や統計学もまた、確率的でもなければ統計的でもない従来どおりの推論に支えられているのだという点をすっかり忘れてしまっているのではないかと言いたい。

統計や確率を持ち出して「或る程度のリスクは仕方がない」と言っている人々(その筆頭がリバタリアンやネオコンだ)が根本的に間違っているのは、事象が起きる確率(ここでは雑に「リスク」と言っておく)は確かに 0.2 や 0.04 という数値であり低い値なのかもしれないが、「そういう状況に身を置く必然性がない」という前提さえ理解していれば、そのリスクはゼロにできた筈なのだ。或る食材にアレルギーがある子供に少量の当該食材を与えてしまったとき、リスクとしての確率は低いかもしれないが、場合によっては子供が死ぬ可能性はある。しかし、事前に「この子は~にアレルギーがあるので避けてください」と言えば、そのリスクはゼロにできた可能性があり、そしてたいていは忌避食材を食べた子供が助かる可能性よりも、その可能性の方が高いのだ。そして、これこそが「人類の知恵」というものなのであって、確率というただの数字を振り回すだけなら、それは数学オタクの下手くそなダンスにすぎない。

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