2017年05月09日に初出の投稿

Last modified: 2017-05-09

ここではお馴染みだが、僕はかなりのあいだ「凡庸さ」とか「自意識」といったものをキーワードにしている。それらのキーワードで解釈される事柄は、僕らの身の回りにあるありふれた光景や他人のあらゆる言動だ。、そして、もちろん僕ら自身も凡人であるほかはないのだから、僕らにもこれらのキーワードが当てはまるだろう。そうした凡庸な人々のつくる集団においては(これまでの理屈から言えば、これを「あらゆる集団においては」と言い換える余地もあるわけだが)、集団を構成する大多数の成員がもつとされるような、身の丈に収まる価値観を逸脱するような言動は忌避されたり排除される。そして、社会学の「排除型社会」などというフレーズを待つまでもなく、昔からこのような指摘はたびたび出てきた。

しかし、このような集団のしくみは「集団主義」のように見えて、実は個々の価値観はただのエゴによるのだから、エゴを正当化する装置(そして、何か間違いがあった場合は人身御供)としての観念あるいはスローガンだと考えた方がいいのではないかと思う。たとえば、「日たちで何を共有しているのか合意せずに政党を維持していると言っているに等しい。

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