2019年07月23日に初出の投稿

Last modified: 2019-07-25

いちばん大事なのは、「みんなを不快にさせたこと」ではないはずだ。

いま、そこにある反社

日本では古来から一種の正義漢としてヤクザを芸能が扱ってきた歴史があるから、ヤクザに対して怖いと思いつつも、何か自分の鬱屈した気分を代わりに吹き飛ばしてくれる存在として、もちろん《男》にだけ圧倒的な人気がある。それゆえ、たいていのヤクザ映画では人を殺すし、女子高生を凌辱するし、自分よりも大きなものに立ち向かってアホみたいにたやすく死ぬわけである(この逆パターンが『太陽にほえろ!』などの刑事ドラマだ。刑事がバズーカー砲を扱っていても、渡哲也は人を殺さない)。要するに多くの《男性》の中にある人間のクズというべき黒いものを一方では作品として形にすることで、こういう感情があっても仕方ないとされているのだという免罪符にしてきたのが、日本のサブカルどころか大手を振って全国に配給されてきたメジャーな映画というカルチャーなのである。

よくよく考えてもらいたいが、北野映画を絶賛しているはずのヨーロッパでギャングの映画が殆どなく、評価もされていないのはどうしてなのか。東アジアのサル、しかもお笑い芸人風情が作った、ギャングを美化したり犯罪者に何らかの言い訳を与えるような映画を自分たちが作ると一斉に非難されるからだ。芸術作品としてなら、アジアのサルが死のうがどうしようが、フランス人などという、いまだに世界に中心にいると思い込んでいる品性下劣な連中にとってはどうだっていいのである。

もちろん、僕は或る人物がヤクザだからというだけで社会的な排除に値するとは思っていない。社会科学的にお上品な理屈によれば、そういうことは《サベツ》であり、良くない考え方だからだ。しかし、日本の社会には準備罪というものもあるし、指定暴力団には一定の法的な制限がかかる。なんだかんだ言っても、そこに一定の基準で認めらえた集団が存在し、その構成員であるというだけで何らかの行政的に特別な扱いを受ける人々がいるわけだ。それ以外にも、銭湯ではヤクザだろうとなかろうと刺青を入れた方はお断りされるし、ヤクザが役職についている会社は銀行等からの融資が100%受けられない。元公安の人々が作った調査会社があって、ほぼ毎日のように情報が更新されており、ヤクザの構成員は氏名や顔写真が捕捉されているからである。では、そういう現実の社会で起きている排除の構造は、排除であるがゆえに社会科学的な理屈から言えば間違っているのか・・・そんなこと、日本の軟弱社会学者ですら言わないよね。せいぜいヤクザのフィールドワークでメシを食ってるルポライターがごちゃごちゃとセンチメンタルな不平を口にするていどだろう。

もし或る人物が《本質的な》凶悪犯罪者であるとか、《生来の》殺人者であるとか、あるいは《修正不可能な》悪人であるというなら、一般的な社会防衛の理屈から言って、そういう人物にどのていどの人権を保障すればいいのか、議論の必要はある。そして、そういう人物が世界中にいれば、国際的な機関をつくって一か所に集めた方がいいのかもしれない。つまりは世界規模での排除が正当だとされる可能性もあろう。しかし、そういうことにはならないわけで、人がどういう点で罪に問われるかは国によって違うがゆえに、どういう国においても犯罪者として扱われるかどうかは自明ではないという建前がある。たとえ殺人であっても、条件によっては無罪となる場合もある。

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