2018年07月09日に初出の投稿

Last modified: 2018-07-09

どのようにしたら、自分らしく、意味のある人生を歩めるか模索する若者や、家族や友人との関係に悩む人たちに、「解脱悟り」「人類救済」などといった、一見高尚でやりがいのある目的と、「グルと弟子」という強い結びつきを与えた。

オウム事件死刑執行、その正当性と今後の課題を考える

いつの時代、いつの人々にもあるような悩みに手軽な「ソリューション」を提供して人の批判精神や思考力を奪うのは、なにも宗教や自己啓発セミナーだけではない。適当な「敵」を作っては日本のためだと喚いたり暴力に訴えるチンピラども(こういう連中を「ネトウヨ」などと呼んで政治思想と関連付ける必要はないと思う)、出版社や新聞社を隠れ蓑にした旧来の左翼、慈善活動に携わっているという錦の御旗さえあれば何を言っても「弱者の視点」などと称して正当化されると思っているおめでたい人々、そして、薄っぺらい紙屑で人生の最適解だの何のと大風呂敷を広げるマスコミ哲学者たち。

われわれは誰しも凡人であって、他人よりも秀でた才能などない。それにもかかわらず、何か重大な真理や答えを知っているなどと言っている時点で、新興宗教の教祖だろうと早稲田の哲学講師だろうと本質的にはオウムと同じであり、局所的な範囲にとどまるとはいえ、社会の思想的なリスクを引き上げるような者だと言える。

したがって、僕が言いたいのは、特定の団体とか特定の活動を見張っていればいいわけではなく、「誰が」という観点でリスクを見積もってはいけないということである。そうではなく、どのようなものの考え方や表現の仕方によって、僕たちだけではなく、それを口にしている当人自身も言葉や観念に自らを支配されてしまうかというリスクを、個々の場面なり状況で見積もらなくてはいけないということだ。これはもちろん非常に手間のかかることである。したがって、場合によっては優柔不断に思えるかもしれないが、僕はこういうことを(とりわけ本人にとってリスクを見積もる初めてのパターンやケースならなおさら)維持できるような生活スタイルや仕事の仕方を確保できることが望ましいと思う。なにやら教訓めいた話になるが、しょせん人生や思想というものにショートカットなどない。自分で納得しなければならないのであれば、その経路をどれほど合理化してみても、最後に自分自身で考えることまで辞めてしまったのでは、それこそ機械に置き換わった方がいい。もちろん、僕は哲学者として実務とかスキームというものを軽視する従来の人々の態度を「無能」と断定して憚らない人間だが、それは都内の IT 企業によくいる若造経営者みたいに効率だけが唯一の基準だからではない。

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