2019年03月08日に初出の投稿

Last modified: 2019-03-08

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農人橋

緯度経度では(34.681703, 135.511888)となる場所が「農人橋」と呼ばれている。現在は大きな交差点や歩道橋や阪神高速道路の東船場ジャンクションなどがある、はっきり言って雑然とした場所なのだが、交差点の南西を中央区役所へ行く途中の路上(東横堀川の手前)には、地名の由来を解説している顕彰碑が立っている。以前も書いたとは思うが、中央大通りの北側を歩けば分かるように、実際に二本のアーチ橋がかけられているのが分かる。したがって、顕彰碑はあるけれど橋が無くなったわけではない。そして、もちろん農人橋は交差点の名前ではなく、この橋や、橋の東詰付近の地名である。

調べれば誰でも分かるが、「農人橋」は正しくは「のうにんばし」と発音する。大阪市内に生まれ育った人でも「のうじんばし」と呼ぶ人は多いが、そもそもどうして「のうにんばし」と呼ぶようになったのかとか、「のうじんばし」と呼ぶ人が増えてきた事情が分かるのかどうかとか、その社会言語学的な、地名にはありえることだという理屈がないかどうかとか、そういうことを調べる人は殆どいないらしい。検索しても、この地名を「のうにんばし」と呼ぶのだという蘊蓄をコピペしている人々ばかりだが、僕はこういう AI にも劣るような知性の持ち主ではないので、少しは頭を捻ってみよう。

いや、それなりの知性があれば「捻る」必要などない。まず「農人橋」の「農人」を調べてみればよい。すぐに「農家」や「農民」のことだと分かる。古くは『日本後紀』の弘仁二年(812)5月21日の勅に、「農人喫魚酒。禁制惟久。」と出ており、振り仮名が明記してある文学作品としては、上田敏が海外の詩を選んで翻訳した『海潮音』(1905)に「のうにん」とあるそうだ。「のうにん」と呼ぶ地名は、他にも高知県や三重県や鳥取県などにもあるという。それから「農人」には「のうじん」という読み方もあると解説されているのだが、その実例は少なく、検索してみても最近の農業法人の社名やサービス名が見つかるだけだ。地名では、兵庫県に農神(のうじん)という町名があるだけで、「のうにん」という読み方は全て「農人」という地名になっている。

ということで、更に発音の違いが生じている最小単位の「人」について調べてみると、「にん」は呉音、「じん」は漢音という区別があり、日本語の漢字の発音は、たとえば仏教用語(音読み)、儒教用語(訓読み)、あるいは有職読み(音読みを通り名にする習慣。松本清張も、本名は「まつもときよはる」と読む)など、色々な例外や特殊な風習に従う事例があって、正直なところ外国人の学習者どころか日本で生まれ育った人間でも習慣的に読むことはできても理由を分かっていない人が多い。また、明治の新政府が外国語からの翻訳語として新しい知見を導入した際に漢音を使ったため、「人」を「じん」と発音する言葉が増えた。ただし、以下のような区別が指摘できるという(大槻美智子「造語成分『人(ニン)』と『人(ジン)』の特徴と熟語の意味」『教育研究』, Vol.40 (December 2014), pp.1-13; もともとは「野村1977」と呼ばれている著作で指摘されたらしいが、この論説の文献表には、実はその「野村1977」の記載がない<笑)。

(1) 「にん」は和語と結合できるが、「じん」は和語と結合しない。

(2) 「にん」は用言類と結合し、「じん」は体言類などと結合する。

(3) 「にん」と結合するのは動作を表す言葉で、「じん」は状態や場所などを表す言葉である。

(4) 「にん」は数詞と結合でき、「じん」は地名と結合できる。

また、古い「にん」という呼び方を敢えて漢音に逆らって残したという俗説もあるようだが、ここでは検討しない。ともかく、色々な事情があって「にん」も「じん」も「人」の読み方としては使われているのである。したがって、「農人」を「のうじん」と(わざとかどうかはともかく)漢音で読む習慣、つまりは儒教文化に影響された武家の習いがあったなら、一部に残っていてもおかしくはない。ただちに間違った読み方(失礼にも「百姓読み」と言ったりする)と断定できるかどうかは分からない。

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