2018年07月21日に初出の投稿

Last modified: 2018-07-21

弁護士の懲戒請求をめぐっては、あるブログが発端になって、全国レベルで大量におこなわれていることが問題になっている。このブログは、朝鮮学校への補助金交付などを求める各弁護士会の声明に反発したもの。2人の弁護士は、このブログ主の刑事責任(業務妨害罪など)を追及する方針だ。

「懲戒請求者は90億人」の手紙も…大量請求受けた弁護士2人が提訴へ「非常に不当」

少し前の話題になると思うのだが、改めて着目してみた。なぜなら、この弁護士による反論や提訴を「スラップ(訴訟)」だと言う人がいるからだ。本人は徹底した原理原則を尊ぶ反権力という観念に引きずられて、一定の公的な影響力や実効性をもつ立場にある人がやることを形式的に「権力の横暴」というテンプレートに当てはめて批評するのが定石らしいが、それは世の中の実情というものを無視して得意げに思想家ヅラしたいだけのアホウがやることだ。言葉や観念を弄ばずに世間の実情をよく見なさいなんて、あろうことか僕らのような哲学者に言われて恥ずかしくないかね。

さて、最近では「ネトウヨ」とか「alt-right」とか呼んでる人もいるが、イデオロギーどころか左や右の短絡的な思考でもなければ、ましてや畏れ多くもスメラミコトとはなんの関係も無い、要するに昔なら「キチガイ」と言っていた連中がいて、民族派右翼の耳目を集め易い発言とだけ字面はシンクロしやすいために、思想という皮を被った卑怯者が Twitter や Facebook などのソーシャルメディアで、あたかも民族派右翼であるかのように勘違いされて目立つようだ。しかし、目立つだけで実際のところ人数が日本で増えたわけでもないと思う。景気も関係ないと思う。なんとなれば、そもそも圧倒的多数が凡庸な人間や無能で埋め尽くされているのが生物の集団というものであるし、文明や文化を手にしたくらいで無能な個体の割合が集団の中で減ったり増えたりなどしないからだ。ソマリアに比べて日本では iPhone をもっている人の割合は多いかもしれないが、別にバカの割合がそんなことだけで減ったり増えたりするわけがない。日本には〈iPhone を持っているバカ〉がアフリカよりも多いというだけのことなのだ。

では、リテラシーやメディアリテラシーや教育や学問に意味がないのかと言えば、恐らくバカは常にいるものの、バカの影響を可能な限り低減する知恵が他の凡人に育つのだろう。同じていどのバカが何かを煽ったときに、アフリカなら暴動が起きたり隣人同士で殺し合いが起きるのかもしれないが(実際に頻繁に起きているし、日本もかつてはそうだった)、いまの日本だと愚かな中高年が煽られて気軽にヘイトや集団リンチに手を染めるというわけだ。そして、軽微なことであれば悔い改めて更正したり慎重に振舞うようになるかもしれないが、アフリカの暴動や部族争いのように大量の人を殺したなどということになれば、周りが同じようなことをしていたならなおさら、積極的に反省しようと声を上げることなどできなくなる。それは、先の戦争で多くの現地人を殺し、その事実を自分の家族にも言わずに続々といまでも死んでいる日本の元軍属の高齢者にも言える。そして、そういう人々は口をつぐんだまま人の親となるわけで、そこに何かの反省の上で子供を育てるにあたっての工夫がなければ、それは単に罰せられなかったというだけの、反省が無い殺人者であると言いうるのだ。現代に生きる我々にはそういう〈原罪〉のようなものがありうるということを弁えずに、威勢のいい外国人差別を口にするような連中は、本当に無知という名の重罪を犯していると言いうる。

昔からそうだと思うが、個人として面と向かってやっているわけでもない匿名の非難というものは手軽で、特に強い自覚もない人々、やや戯画化すれば「和のこころ」などと称して着物姿でインバウンド系のイベントを主催しているような三十代くらいの無知無教養な人々が気軽に、無自覚に、在日朝鮮・韓国・中国・台湾人とか、研修に来ている東南アジアやインドや中東の人々を慇懃無礼な言い方で差別しながら、自分は日本の文化を体現しているなどと思い上がったブログを書いたり Twitter で細々とつぶやいていたりするわけだ(実際にそういう人がいるかどうかはともかく、得てしてそういうカジュアルなバカや気軽な差別というものが横行しているということだ)。そういう人々の無知な発言を Twitter や Facebook や YouTube のナレーションで見聞きするたびに、まず狂信的な愛国か日教組的な反日かなどという、概して学術的に正確でもなければ道義的に正しくもない連中の提示する「歴史」などさておいて、そもそも何か一冊の教科書さえ読めば済むような「歴史」の理解などありうるのかどうかを考える観点というものをもってもらいたいと思う。これが面倒で難しいがために、多くの人は状況や自分の置かれた境遇や景気に合わせて、自分の気分を正当化したり和らげてくれるような「歴史」のストーリーに引きずられたりするものなのだ。そういう厳しい地点に踏みとどまるつもりがないなら、大学教員だろうと文科省の官僚だろうと政治結社の主催者だろうと、大手の出版社からどういう威勢のいい本を書いていようと、しょせんは凡人の殴り書きにすぎない。

それから、このように複雑なことを書いていると、三流構成作家のように人脈だけでものを書いているような無能には理解するのが難しいかもしれないが、僕はこの事案で無関係な弁護士が巻き込まれた騒動に関わるイデオロギーの問題については、いわゆるリベラルとか左翼の立場は支持していない。よって、上記だけを読んで短絡的に左だのなんのと言うような連中に僕のサイトのコンテンツを理解するのは難しすぎると思うので、四年制大学で哲学でも勉強してから閲覧してもらいたい。

そういうわけで、僕は北朝鮮の体制を支持するような教育なり学習を実施している学校への補助金は必要ないと思うし、日本の正規の学校として認可する必要もないと思う。なぜなら、そんなものは日本で生きている朝鮮半島の出身者に対して人道的な観点から保障するべき「民族教育」の範疇には入らないと思うからだ(朝鮮半島の文化や歴史を学ぶために一定の課程を割り当てたり、特別な資料を用意するための補助金を学校に公庫から助成することは正しい。というか、全ての学校で世界史や日本史に加えて「アジア史」のような課程を取り入れてもいいくらいだ)。現行の北朝鮮の体制を賛美する教育などというものは、簡単に言えば水に向かって話しかける道徳授業をやっていた河内長野や尼崎の小学校教員と同じである。

確かに、日本の現行の政治制度を教えることは一つのイデオロギーを教えることに等しいが、どこの国であろうと国民の選択によって一つの制度を成立させて維持している以上は、その基本にある理念とか原則を否定する教育を実施することは、簡単に言えば「反日」などという安っぽいものではなく、基本的人権や経済・法律といったシステムに対する挑戦なのである。大学では現行の制度だけを是としない立場からの学習なり研究をするものだが、それはものごとを改善したり向上させるためだという前提があり、「何を改善するのか」という点において、大学生はあらかじめ高校までに現行制度を学んできているという事実があるからこそ、別の制度や特定の時代・地域に限定されない制度やイデオロギーについて学んだり考えたり議論したり提案できるのである。したがって、どこの国の出身者であろうと、いま生きている国の現行制度を教えることは当たり前のことであり、国民としての(法的な義務とまでは言えなくても)責任があると言ってもよい。いくら朝鮮半島の出身者だからといって、いま自分たちが暮らしている国の制度や原則となる思想を教えずに、恐らくは自分たちが今後も足を踏むことはない国の制度や思想を率先して教えるなど言語道断と言ってよい。それはまるで、日本で生まれ育っている小学生に日本語を教えるよりも先に英語やクリンゴン語を教えるようなものだ。(しばしば、日本にあって日本語を無視した教育をしているインターナショナル・スクールを何の根拠もなく「国際的」などと称して美化する人がいるのだが、出身者などせいぜい芸能人になるくらいが関の山で、大学教員や大企業の役員あるいは世の中で実質的な力をもっていたり大きな業績を上げたという実例など殆どないのである。)

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