2019年10月11日に初出の投稿

Last modified: 2019-10-11

「私は電子出版という形にこだわりました。私の物語は、私の個人的な経験に関するもので、自分にとって非常に大切なものだからです。その物語の権利を誰かに売り渡してしまうことは、自分の子供を売るようなものです。自分の子供を売ることができる人などいるでしょうか。」Sarah Burleton: 『Why Me?』

https://kdp.amazon.co.jp/ja_JP/non-fiction

まず、自分で書いたものを読んでほしい、売りたいというのはわかる。そして、この人物が自分で書いた作品の著作権をもつことは自明だが、出版するかどうか、どういう体裁で出版するか、価格はいくらか、どういう流通を通すか、どう編集するかといった派生的な権利について他人に売り渡したくないというのも分かる。そして、アマゾンのサービスを使えば、それらの編集や頒布にかかわる体裁を自分でコントロールできるというのが、ここで掲載されている広告の主旨なのだろう。

しかし、出版社に渡したくないという著作隣接権を「自分の子供」と表現するのは間違っていると思う。

寧ろ、自分が生み出した子供のようなものとたとえるべきは、まさに作品、コンテンツの方だろう。なぜなら、仮にこの人物が公に頒布する出版物として販売しなかったとしても、彼女が自宅に所持しているタイプされた原稿は、彼女が生み出した何かとしてあり続けるからだ。プロの書き手はたいてい出版社に編集権や出版権を委託して実務を委ねる。しかし、彼らは自分の生み出した子供を他人に売り渡したとは思っていない筈だし、著作人格権が譲渡不能な権利であることも理解しているだろう。確かに、世の中には子供を里親に(無償だろうと)譲り渡すという事実はあるが、或る人物がその子供の産みの母親であるという事実は消えない。著作人格権が譲渡不能であることは、それと同じではないか。

僕が上記の文章を読んで違和感を覚えるのは、これが理由である。彼女の理屈にしたがえば、著作隣接権を出版社に譲り渡すプロの著作家は、自分の子供を売春婦や奉公人として売り渡す昔の田舎の農家みたいなものなのか。出版社は著作隣接権に関する《人身売買》のブローカーだろうか。

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