2017年08月20日に初出の投稿

Last modified: 2017-08-20

最近のアイドルの名前に付いてる「(2)」とか「(仮)」とか、いかにもパブ狙いで拙劣だと思うけど、ガキの歌唱力や演技力やダンスの才能なんて知れてるわけで、そろそろションベン小僧としての限界に達したのではないか。それこそ限度を超える才能なんて簡単には出てこないわけだし。

もちろん、これは昔と比べてどうという話ではない。それどころか、昔と比べてアイドルの歌唱力が平均として向上しているのではないかと考えてよい理由は幾つかある。指導体制が整っているプロダクションも多いし、指導法そのものが理論としても経験としても向上しているだろうし、おまけに昔は自然発生的に「歌や踊りの巧い子供」が現れるしかなかったのに比べて、最近では沖縄アクターズ・スクールの事例でも分かるように英才教育や選抜プロセスなどが整備されている。しかし、そのようにタレントを育成したり選抜するシステムが整備され維持されてくると、手順として手堅くなる代償として、そういうプロセスを経てこない才能を見逃す可能性も高くなる。なぜなら、そういう体制の中で子供たちを育成することに専心している人々は、既にサラリーマン化しているからだ。恐らく、そういうスクールにやってくる親や子供も、或る意味では動機や手段についてサラリーマン化した発想や期待を持ってしまっているだろう。それゆえ、手堅い仕組みの中では基準や評価の尺度が明確なので、限度も明解になっていて、子供がどれほど練習しても或るていどの上限が指導者にも見えているだろう。

確かに、そういう上限に達しつつある子供が増えてくると、いまがそうであるように、特に韓国のポップスターを見ていると誰も彼もがダンスも歌も一定の水準でこなしているし、しかもその水準は昔に比べたら高いだろう。山口百恵や松田聖子や水前寺清子がどれほど歌唱力で評価されていたとしても、当時の芸能界においては例外的だったからであり、いまの芸能界では驚くほどのものでもない標準的なレベルかもしれないのだ。

というわけで、高校生以下のアイドルはだいたい才能の上限に達しつつあり、後はパブリシティ狙いの話題づくりとして、本来の「芸」とは関係のないことばかりが強調される。たとえば出身地、たとえば親が外国人であること、たとえば本名の由来、たとえば有名な先祖、たとえば学校の成績、たとえば趣味、たとえば将来の目標、たとえば・・・いまはまだマイナスの要因にしかならないが、日の娘が芸能人でい続けるためには、枕営業をパブリシティのネタにされても文句は言えなくなるのである。

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