2017年12月11日に初出の投稿

Last modified: 2017-12-11

歴史や考古学の Twitter アカウントを眺めていると、その大半が戦国時代と幕末のこと「しか」語っていないように見受ける。なんでこれほど騒乱の時代が好きなのか知らないが、要するに今の生活や国の状況に鬱屈している人が歴史ファンにも多いのだろう。それにして、この「歴史ファン」とやらの多くは、人の生死に関わる話をしているという自覚が希薄な気がする。幕末や三国志や独ソ戦を語るにしても、花を愛でるように人の死を語っているようだ。逆に、Benatar の議論とか受け入れられやすいんじゃないかな。自殺や特攻のような行為を「美学」と評する文化だし、たぶん生きていても仕方ないと潜在的に思ってる人が多いのではないか。それだけ、生活で根付いている人間関係や風習に人の心を腐らせる何かがあるのではなかろうかと僕は思っている。日本を訪れたり留学してくる変わり者の外国人に、ネイティヴとして忠告しておきたいところだ。表面的な美しさだけでなく、その背後にどういう奇怪で不合理な思想がベッタリと塗り固められているのかも理解しておかなければ、思考を歪められてしまうかもしれない。

表面的な美しさと言えば、僕は、単にデザイナーであるという理由だけではなく、子供の頃から同級生に医者の子息が多くて「人の外見なんて金さえ積めば幾らでも作り変えられる」と教わったこともあって、あまり外見的な美しさというものを重視しなくなった。もちろん、外見的な美しさを端的に無視しているわけではなく、何かを評価する基準のひとつにすぎないと考えている。同じ趣旨で、当サイトで黄金比を使ったビジュアルデザインを批判しているのは、黄金比を使うなと言っているわけではなく、プロダクトデザインの評価の基準はビジュアルデザインのできばえだけではないという点を弁えていなければ、商業デザイナーとして三流だと言っているだけのことである。しょせん三流や二流はセンスなどないのだから、プロダクト設計の「一つのタスク」を完遂するにあたっては、さしあたり無能らしく黄金比でも何でも使っておけばよいのである。

美に取り付かれている人間は、その理解の内容とパフォーマンスによっては芸術家にはなれるかもしれないが、デザイナーにはなれない。本来の「デザイナー」は、僕に言わせれば「商業デザイナー」や「プロダクトデザイナー」の省略語でしかなく、ビジュアルデザインというものの役割や価値を設計全体において相対化できる人間でなければ従事できない仕事である。

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