2019年05月27日に初出の投稿

Last modified: 2019-05-27

添付画像

こういうことをする人は、どこの国でもたくさんいる。僕も小学生の頃にノートを今で言う「スタンフォード式」に区切って、授業の板書を写す欄、注釈欄、それから図表と挿絵の欄として、それなりに素朴なイラストを描いていたりしたものだった。こういう工夫は、それぞれ好きにやってる人はたくさんいるし、好きにやって構わないのは当たり前だ。仕事で使うノートや授業のノート、いやそもそも自分で買ってきて仕事や勉強に使うノートに何をどう書こうと、そんなことを誰かに指図されたり禁止される筋合いなどなかろう。

そして、これは少しばかりシニカルな言い方になるが、これだけやっていても人類の発想や叡智など容易く進展したり向上することなどない。重大なリスクがない範囲で好き勝手なことをしてもらっても構わないとされているのは、逆に言うとその結果が重大な問題を引き起こすとは思われないからなのだ。或るノートにイラストを赤のペンで描こうと青のペンで描こうと、その違いだけで100年後に誰かが深刻なテロを引き起こしたり、あるいは誰かがノベール賞に匹敵するアイデアを得るということは考えられそうにないし、理屈として考えうるとしても、では何をどうすれば将来の深刻な結果を避けられるのか、そんなことは誰にも具体的な予測ができないのである。すると、わずかな違いで起きる結果に「良いこと」が多いと見込めるのか、それとも「悪いこと」が多いと見込めるのかは、それぞれ具体的な根拠を欠いた推測にすぎないとは言えるが、われわれには直近で起きる結果によって判断が大きく左右されるというバイアスがあるので、やはり些細な違いだけで重大な結果が引き起こされるものではないと考えたがる。すると、些末なものまで管理したりコントロールするコストを考えたら、放置する方が合理的だという話になるのは自然である。

もちろん、これは「通時的な合成の誤謬」と言いうる。しかし、われわれがいつから軌道を間違えて、いま現に間違った軌道を歩んでいるのかどうかという判断基準がない限り、そもそも「誤謬」であるかどうかを現時点の状況だけから判断できないからこそ合成の誤謬は起きやすいのだから、どのていどのコミットメントが妥当なのかというメタレベルの基準が必要なのだろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook