2019年10月22日に初出の投稿

Last modified: 2019-10-22

有償のリソースというものは、もちろん有償なのであるから、誰にでもアクセスできるわけではない。したがって、そういうリソースが多くの人々に共有される経験や知識の文字通りリソースとなるには、まず多くの人々にとって、それなりの現金なり、それなりの時間なり、それなりの心理的な余裕がなくてはいけない。そして更に、多くの人々が一斉にアクセスする共通の事情や共通の関心という歴史的な状況が必要だろう。

そうした条件が全て満たされるチャンスは、当然ながら歴史を見ると少ない。そして、「多くの人々に共有される」とは言っても、実際には記憶を回顧した記録が残って「多くの人々に共有される」リソースだったと後世に伝わるという条件も必要である。また、そういう記録の多くは作家や著述家や官僚などの出版物であるため、「多くの人々」が彼らの周りにいた一部の特殊な境遇の人々だけだという偏りもありうる。それゆえ、たとえば「昔の学生は岩波文庫を競って読破したものだった」といった、僕に言わせればナイーブな(しかしたいていは本人に悪意のない、無自覚な)自己欺瞞を根拠として大学生へ自己啓発的な生活指針を勧めるような高齢者の議論は、当時の状況へと正確に配置しなおして評価しなくてはいけない。

今日も、数多くの作品や論説が有償コンテンツとして色々なサービスなり媒体で展開されているのだが、どのみちそういうコンテンツをリソースとして利用できる人々は、色々な意味で(必ずしもお金や暇があるというだけではなく)一定の条件にある一部の人々なのであって、実は殆ど正確な定義も分析もされたことなど一度もない(「マス・メディア」の)「マス」という表現の意味には、それを何か概念として正確に語りうるかのような思い込みや予断や偏見が非常に強く、また無自覚に押し込められているように思う。「みんなが読んだ漫画」とか「誰もが知ってる(競馬の)名馬」とか「哲学科の学生ならこれは読んでおけ」といった、はっきり言って安っぽいセリフの隠れた同調圧力で何が期待されたり何が制約になっているのかを分析することが、メディア・リテラシーの一つの役割だろう。

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