2019年06月26日に初出の投稿

Last modified: 2019-07-11

ZAP

これまで、才能の可能性は多様だが凡庸さは単調だと言ってきた。つまり色々な分野に誰かの才能が活かせる余地はあるが、無能な人間のやるべきことに多様性などないという意味であり、天才には色々な分野の人がいるけれど、凡人にそういう意味での多様性なんてないのだということである。しかし、これは一見すると尤もらしいように思えるが、強い根拠や証拠などないので再考の余地は大きい。 まず、昨今は歴史の研究成果や認知科学なり精神医学の研究成果から、天才と呼ばれてきた人々には発達障害をはじめとする共通の特異性があると言われるようになったので、いわゆる天才とか大きな成果を上げている人々こそ、遺伝学的に共通のパターンがあったりモノカルチャーだという可能性もある。ただ、既に生物学では人の発達について nature vs. nurture という議論は問題外となっているため(つまりどちらかが the decisive factor だとは言えないということ)、遺伝学的に何らかの共通パターンがあったとしても、優生学的な判断を下すほどの強い関連性はないだろう。 そして、「馬鹿は、時代や国や出自や性別や年齢にかかわりなく馬鹿である」という表現が一見すると説得力をもつように思えるのは、有能な人々や天才に比べて、無能や凡庸な人々には「馬鹿」を始めとする簡単な集団名詞があるからというだけではないかと言える可能性もある。そして、色々な才能や業績を出す人々に対して凡庸か無能な人々に集団名詞が押し付けられやすいのには、やはりそれらを根本的に善悪や良し悪しの問題であると思い込んでいる偏見があるからではないのかとも言いうる。凡庸な人がその時点で凡庸だと見做されているのは、単にその人物が大きく貢献できる仕事や分野を自分で見つけられていないという事情のせいであって、その人物が何についても無能であるという証拠はないからだ。 これを全ての人に適用すれば、無能であるかどうかは単純にいま成果を出しているかどうかの差でしかないという話になる。ただ、そういう議論を「平等は良いことだ」といったイデオロギーに引きずられて展開すると、よくある「世界で一つだけの花」といった社会科学的なファンタジーを展開して、口先だけの正論をまくしたてる子供と同じであろう。こうして見ると、確かに通俗的な次元で語られている「哲学」というものが、クリシンやメディア・リテラシーのような議論と組み合わせやすいのは確かだし、クリシンやメディア・リテラシーの手法に親和性がありそうな分析哲学が持ち出されるのも分かる。

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