2018年07月06日に初出の投稿

Last modified: 2018-07-06

「研究は常に研究対象の全体を見ながら進めなければならない」のです。日本語文法でも個々の点については優れた提案があるようですが、「日本語文法」と題する著書を公刊する蛮勇を持っている人はいないようです(私は知りません)。外国人に日本語を教える人はたくさんいるようですが、どうなさっているのでしょうか。

国語辞典はこれでいいのか

冒頭、「ものすごい広告を張り続けています」とある。これは「張る(しわを伸ばして取り付ける)」でも「貼る(ノリなどで接着する)」でもいいのだが、最近はウェブコンテンツも標準的な媒体の一つとして認められているので、もはやどちらも不適当で、更に一般的な表現を探すか、オンライン広告に特有の表現を充てるのが妥当と思われる。これが、キャンペーンの一環として広告を色々な媒体で出しているというのであれば、「キャンペーンを張る(展開する)」という言い方があるので、「広告を張る」と言っても辛うじて通じるとは思うが、いまでは「張る」という言葉は「取り付ける」という意味よりも「紐や布の両端を持って緩みを無くす」という意味合いの方が強くなっているように思うので、「広告を張る」という表現を維持するのは難しいかもしれない。

さて。それはそうと、牧野さんが「狂騒」と呼んでいる『広辞苑』のキャンペーンなのだが、毎週のようにジュンク堂を初めとしてどこかの大型書店には必ず顔を出している者の一人として、そのような反応の方が異様に思える。『広辞苑』の新しい版が発売されたときに、書店でフェアが開催されたり、暫くは国語辞典の棚に『広辞苑』専用の棚ができるのは、はっきり言って何度も繰り返されてきたことであって、いまになって驚くようなことでは断じてない。とりわけ『広辞苑』のような定番の辞書は愛好者が多く、新しい版が出るたびに買い替える(実質は買い足す)人がたくさんいるので、そういう人が減らないようにプレゼンスを維持する必要がある。また、新しいユーザなりリピーターを獲得するために「日本の定番国語辞典」といった扱いを実店舗やウェブサイトに求めるのは、『広辞苑』に限らず定番商品の販促として当たり前のことである。そのようなプロパガンダの媒体が増えれば増えるほど、テレビ番組だろうと朝日の提灯記事だろうと、何でも利用するのがビジネスというものだ。まさか『広辞苑』を、岩波書店が革命的プロレタリアートや市井の哲学者のために慎み深く制作・販売しているとでも思っているなら別だが。

あと、僕がたまたま『再構築した日本語文法』の著者である小島剛一さんのブログ記事を読んでいるから言えるだけのことかもしれないが、国語や国語辞典について物申すと大上段に構えている人間が、上記のように不見識なことを平然と書くものではなかろう。日本語について「全体を見ながら進めなければならない」と仰るのであれば、その成果である国語学や国文法学の著書についても、「日本語文法」全体について書かれたものがないかどうか、せめて検索するとか大型書店で眺めてから断じるべきだ。「(私は知りません)」と最初から逃げ道を作るのであれば、このような方は、いやしくも哲学者を名乗るのであれば、論理的に言って誰であれ完全な根拠とか疑いの余地がない証拠によって何かを断定できるような人はいないのだから、およそ全ての文の末尾に「(本当かどうか、正しいかどうか、私は知りません)」と書くべきである。

そして、牧野さんは「文法はさておき、今回は『辞書』の問題をまとめます」として、手持ちの国語辞典にこういう言葉の乱れがあるとかこれが書かれていないとか、国語辞典の構成・制作に関する原則上の所見でもなんでもない、はっきり言って些末なコロケーションや表記の乱れの話ばかり書いており、ややウンザリさせられる。そもそも、言葉の乱れ云々と仰るのであれば、この「『辞書』の問題」という意味不明な括弧書きこそ自省すべきではないのか。ふつう、括弧書きというものは、(1) 伝聞・引用表現、(2) ときとして皮肉な伝聞・引用表現(英語で言う "allegedly" のニュアンス)、(3) 強調表現、(4) 論文や演目など冊子媒体や演劇作品の一部の題名などに使われるというのが高等教育を経た人の常識というものだろう。ただし、文脈によっては引用なのか強調なのかが分かり難い専門用語の括弧書きというものが多々あるので、牧野さんもご承知だと思うが、哲学や思想の分野では、強調したい語句をフランス語の引用符である「ギュメ(《...》)」を使って表記する場合もある(但しギュメで引用することが多いフランスの文章に慣れている日本の研究者は、逆に強調表現を鍵括弧で表記し、引用をこそギュメで表記する場合もあるので、まぁややこしいと言えばややこしい)。この点、日本語では鍵括弧を色々な脈絡で多用し過ぎて誤解の余地を作っている可能性があり、中国語や朝鮮語のように鍵括弧だけでなくダブルクォーテーションやギュメも柔軟に使ってよいと思う。で、牧野さんはどういう主旨で「辞書」という言葉を鍵括弧に入れたのだろうか。僕には、その意図は全く伝わらないのだが。もし、A ではなく B と言いたいだけなら、どうして「文法」という言葉も鍵括弧に入れないのだろうか。

もちろん、他人の揚げ足を取っているだけでは不十分であり、僕も自分自身で文章を書いていて、しばしば強調したい言葉かどうか十分に検討せずに語句を鍵括弧で囲んでしまうことはある。そして、この Note を書いているときでも、後から読み返して無駄な括弧書きで強調する必要などないと判断すれば括弧を外すことがある。それに、無視できないくらいの割合で、括弧書きを強調表現として理解しない(括弧書きされた表現は誰かの言葉の引用だと思っている)人もいるのである。したがって、ここ最近は強調表現として鍵括弧を使うのは可能な限り(つまり自覚なしに書いているときを除けば)止めるようにしている。せっかく HTML が使えるのだから(この Note ではタグは使えないのだが)、論説のページで強調したい語句があれば <strong/> 要素にすればいいだけのことだ。

確かに、牧野さんが指摘されている(些末な)個々の指摘は、首肯できる内容が多い。僕も、「一方では~、他方では~」と書く人が少なくなった思うし、その代わりに「~、一方で~」とか「~の一方で、~」などと書く人が増えたり、いやそれどころかこのような対照をする複文を書く人がそもそも少なくなってきたと感じる。このような複文は、Twitter や LINE のような媒体で日本語を使うにはあまりにも面倒臭い仕組みだからだ。

もちろん、単文だけでも人は意思疎通ができるし、単文だけを書いていても(恐らく NHK のニューズ原稿作成係や朝日新聞の記者にはなれないが)生きてはいけるから、そういう媒体でやりとりしているうちに複文を書く能力が発達しないで人の親になってしまう者が大勢を占めるという、文化的な悪循環(複文を扱えないことが悪いとすればの話だが)は殆ど止められなくなる。恐らく学校教育のような、体裁や処世術だけのための常識を弄ぶ暇つぶしの場所で何を学習しようと、そんなものは殆どの人間にとって身に付かず(殆どの大人が高校で散々勉強した数学を忘れるという点から言っても、これは昔からなのだが)、高校を卒業した大多数の人々にとって、学校教育というものは馬鹿げた世の中の仕組みに順応したり、不満を自制したり、スポーツやセックスやいじめで憂さ晴らしをする訓練にしかなっていないのではなかろうか。そのような場所で、どれほど国語授業のお題目として複文を習おうと、自分の表現として使いこなす人がいなくなれば、自分の子供との会話や手紙やメッセージのやりとりでも使われなくなるので、そのような習慣の蓄積によって、学校のお勉強ではどうしようもない影響が広がるものだ。

また、牧野さんが指摘されるように、「方法」とか「手段」と言えば済むものを、やたらと「方法論」と言う人がマーケティングや営業の人材に増えたという印象があるし、昨今では確証がないことをすぐに「~という確率論で」と言う人も増えている。何か高尚なことに携わっているか、はっきりした学問的な根拠があることを話していると思い込みたいのだろうが、われわれのような(科学)哲学者には通用しないし、更に僕のように経営学を始めとする社会科学の素養もあって企業の取締役も経験した者には、そんなハッタリなど通用しない。収益の役に立たないならポーターだろうとドラッカーだろうとクソだし、役に立つならナポレオン・ヒルですら部下が読んでも構わないと思う。

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