2019年04月09日に初出の投稿

Last modified: 2019-04-09

日本企業が、人材育成を「経費」から「投資」にできない致命的理由

まず、この記事を書いている人物が人事担当者であるという点を割り引く必要がある。マッキンゼーで人事をやっていたとかいうブロガーにしても、ではあなたは在職中にどんな人を採用して、その人はどういう業績を上げたんですかなんて言っても、証拠もなければ事実も出てこない。人事系の人々が書くものがおおよそ何の信憑性もない空論であることが多いのは、扱っている内容が当該企業の機密に関わることであるか、あるいは他人のプライバシーに関わることなので、簡単に言えば何の証拠も出せないからなのである。そして、元大企業の人事と称する人々は、それを逆手にとって(あるいは無自覚に)殆ど根拠のないことを適当に書いていたりする。「人事畑で10年」とか言うけど、そら大企業なんて10年くらいはバカを何百人単位で雇い続ける体力くらいあるよ。

さて、まず上記の記事は「日本企業の人材育成は『先進国最低レベル』」というタイトルから始まるが、読み進めると分かるように、これは人材育成なり研修のレベルではなく、投資額の話だと分かる。すると自然な感想として、投資額が少なくてもレベルの高い育成をやっていれば問題ないだろうと思うのだが、そういう疑問は無視される。さすがはオンライン広告で食ってる会社の人事だ。ミスリードや論点のずらし方もお得意というわけである。

そして次に、人材育成が集団管理の手法だったから、育成は「経費」だと見做されてきたという。しかし、こんなことは ISO を始めとする「規格」とか「業界標準」という発想を取り入れてきたアメリカやイギリスなどでも同じことである。従業員は当該企業の事業を支える最低限度のフォーマットに従って業務を遂行するように求められる。それが1900年代のネジ工場の作業であろうと、セプティーニとかいうマーケティング企業の作業であろうと、同じだ。集団の管理は本質的に言って軍隊の組織運営と共通の発想や手法を使うのであって、それぞれの従業員が好き勝手に働いてよいのであれば、成果も責任も各人が負うしかなく、そういう集まりが会社である必要などないのである。人材育成の第一は、それがどれほど凡人のセンチメンタリズムを搔き乱すものであろうと、業務プロセスの「部品」として調整することなのだ。

しかし、「コストがかかる」ということを単純に経費だと混同するのは、僕には乱暴な議論に思える。なぜなら、この人物は「経費」という言葉を、企業にとって仕方なく捻出しているだけの、ゼロにできればそれにこしたことはない無駄な出費というニュアンスで使っているからだ。それに対して、「投資」は前向きの、漫画的に言えば輝かしい明日へ向かってチャレンジするための出費というニュアンスで描かれている。まったくもって漫画的と言う他はない。これがそれなりの業容の企業の役員だというから恐ろしい。自社の人事を心配した方がいいのではないか。

そして記事を読み進めていくと、結局のところ研修などの効果を図る指標として、生産性と在籍年数を掛け合わせるという、まるで高校生がクラブ活動で発表するようなモデルを持ち出す。経営学の議論に多く指摘できることだが、こんなのは単なる結果論だし、しかも在籍年数が長い手法ほど高く評価できるというなら、良かろうと悪かろうと従来の研修を続けても外形的には同じ結果となる(つまり、悪い手法なのに続けてきたということなのか、良い手法だからこそ続けてこれたのか、誰にも区別できない)。こういう程度の低い議論を振り回す人々が絶えないのは、それこそ人事管理に関する学術や経営実務のレベルが低いという、日本の human resource administration の現状をよく体現していると言えるのではなかろうか。つまり、幸か不幸か、この人物の議論こそが日本のレベルの低さをよく表していると思う。

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