2018年10月02日に初出の投稿

Last modified: 2018-10-02

本年度のノベール賞(医学・生理学賞)をジェームズ・アリソンさんと共に受けることが決まった(ちなみに、まだ「受賞」はしていない)、京大の本庶佑さんのコメントが色々な媒体に出始めている。中でも、基礎研究の意義を強調するコメントは近年の受賞者が揃って口にしており、いかに昨今の大学や文科省が手っ取り早く金になるパフォーマンスを求めているかが推し量れるというものだ。

しかし、大学が一部のエリートで占められていた時代とは違って大学への進学率が 50% を越える時代だ。昔なら大学を卒業した者は殆どが官吏や研究者や教員となってもよいほど圧倒的に人材が不足していた。いまどきの「情報セキュリティ人材の不足」などという何の根拠もないデタラメなプロパガンダとは違って、現在のアフリカや中央アジアや南米の国々と同じように、敢えて言うが後進国であった日本には高等教育を受けた人材が実際に不足していたのである。大学卒業者が全て中央官庁に入っても良かったと言えるほどの時代だ。しかし、いまや偏差値が70にも満たない人間が大学へ入学して学位を取得している(あ、そういえば僕も大学受験の頃は70なかったな<笑)。つまり大学へ進学している人々の構成は完全に変ってしまい、教養とか教育水準として、大学を出ていることなど何のシグナリングにもならなくなっている。いや、業種によっては院卒だろうと東大を出ていようと意味を為さなくなっているのである。したがって、大学に求められているのが高等教育という実質ではなく学歴という形式にすぎないというシニカルな批評は、確かに圧倒的多数の大学や大卒者には正しいのだろうし、いかな京大でも専攻分野によっては同じ批評が当てはまるかもしれない(それが、信夫君を始めとする人々の言うように人文系の学問だけの話であるかどうかは、実は自明ではない)。そのような大学では、そもそも学部レベルですら初等的な学術研究を遂行できる人材が殆どいないので、基礎研究などと言ったところで対応できる学生がいないのである。そして、そうした大学へ行く学生の目的は学問ではなく就職なのだから、とりわけ私立大学としてのサービスに一定の偏重が生じるのは当然のことである。

それから本庶さんによれば、マスコミは或る学説や実験結果が Nature や Science に掲載されているということを錦の御旗のように扱うが、ああした雑誌に掲載されている論文の9割はデタラメであるというコメントがあった。しかしそのコメントも、本庶さんが釘をさしている(そして、だいたいにおいて反省などするわけがない)マスコミの御用聞き風情が記事や報道番組で取り上げるのだから、科学の研究プロセスや実証の価値というものについて持論を言いたいのは分かるが、少しは時間をおいて慎重に伝える方がよいと思う。あれでは、マスコミに釘を刺したり、昨今の「エビデンス」とか「事実に基づくしかじか」という愚かなスローガンを振り回す(実は統計学の初等的な素養すら怪しい)バカな科学者を叩きのめすだけではなく、Nature や Science に掲載されていようと当てにならないと言い始める代替医療の詐欺師や科学を騙る占い師どもにも武器を与えてしまったことになろう。

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