2018年05月06日に初出の投稿

Last modified: 2018-05-06

いわゆる保守・反動を自称する人々から見て、国内の大手報道機関やメディアが、左翼なりリベラルなり、あるいは中国や韓国に「乗っ取られている」などという妄想を抱きたくなるのも無理はない。出版・マスコミの関係者に元学生運動の人々が多かったのは事実だし、全国規模で展開している出版・マスコミの会社が東京に集中していることも加わって情実人事だけで組織を作り上げても人材登用や補充に苦労がなかったから、1950年代から1970年代にかけて全共闘崩れがマスコミに「集積」してしまったと言える。したがって、昔から保守・反動の人たちが「自分達には発言の場がない」と泣き言を口にしては、敢えて目立つために暴力を使うだの暴言を吐くだのと言い訳にしてきたわけだ。

しかし、WWW が普及して、好き勝手にサイトを公開したり SNS で書けるようになったら、もうそういう理屈は成立しないわけだが、誰でも簡単に検索さえすれば読めるようになった「正論」とやらを自称する人々が書いていることと言えば、自分たちよりも更に発言力が弱い在日外国人や少数民族や社会的な弱者を叩くか、大手報道機関が相手にしないのをいいことにマスコミを適当になじることばかりだ。これでは既存の左翼やリベラルに加えて、もう一種類のバカが表舞台に登場しただけのことである。

こういう人々はイデオロギーにかかわりなく、自分たちが軽視されると「両論併記」とか「バランス」とか言うんだけど、バカな思考や意見は(そういう間違いの恐れがあるという危険性を喚起するために記録する価値を除けば)この宇宙に存在しなくてもいいし、そんなものを保存する多様性など不要であって、進化論としても思想史としても誤りや偏見を切り捨てることで生じるリスクなどない。「多様なバカ」など、この宇宙に存在する必要などないのである。

この両論併記という観念に訴える人々の思考を掘り下げてみると、単に自分の意見を取り上げて欲しいという子供じみた欲求の言い訳でないというなら、他にどういう正当化が可能なのだろうか。最も強力な理由は、既に述べた「多様性」という、たいていは何の根拠もないファンタジーであろう。もちろん生物多様性なり、人事・採用での多様性なり、あるいはもっと漠然とした意見の多様性といった、それこそ多様な状況で主張されている観念に一定の正当性があることは認めてもいい。しかし、6割のバカが4割のアホウを打ち負かしているような類の「民主主義」が常にマシな成果をもたらすわけもないのと同じで、モノトーンそれ自体を有害だと決め付けるのも浅薄な思想だと言わざるをえない。多様性こそがリスクが引き上げることもあろうし、社会政策や外交政策においては、モノトーンなリサーチ・プログラムとしての一つの選択肢にコミットするべき場合もある。そして更に、多様性かモノトーンかという二分法を越えて、21世紀にもなって離散数学の各分野が普及しつつある昨今においては、まず我々は「どういう条件なら、どう考えたり振舞えるのか」(振舞う「べき」かどうかはともかく)という観点で、個々の事案なり情報を扱う方がよいだろう。そして、どういう状況なら一つの選択肢を押し進めた方がよく、どういう状況なら複数の多様な選択肢を維持した方がいいのかと、それぞれ考えて実行するための知性を築き上げなくてはいけないと思う。イデオロギーというものは、凡人にとっては「思想の揺りかご」かもしれないが、少なくとも自分でものごとを正しく考えて判断したいと望む人たちにとっては、ready-made な思考の道具であってはいけない(結論が同じだとしても)。

以上のような経緯の上に自分自身の見識を築き上げて、それぞれが(正しかろうと間違っていようと)政治的な主張をこうあれかしと繰り出すのであればともかく、大学教員だろうと政治家だろうと、このところ発言力をもつ者の大半が貧弱な調査や思考や他人からの受け売りだけにもとづいて、自分の偏見や謬見を臆面もなく書いたり発言して押し出す「態度の潔さ」こそが正しさであると勘違いしているのだ。まるでマンガやアニメや映画や時代劇や小説に出てくる "harakiri samurai" のような滑稽さがある。もちろん、日本人は「自らの愚かさを自ら許してしまう哀愁」という自堕落なセンチメンタリズムや自滅の美学が大好物であり、ヤクザ映画や自暴自棄小説などでこれからもアジアの辺境を席巻するのだろう。

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