2018年02月14日に初出の投稿

Last modified: 2018-02-14

北朝鮮が自殺的な攻撃を日本に仕掛けてくるリスクは、客観的には計測できないが、常識的に考えてそれほど大きくないだろう。それよりマスコミが、何かのきっかけで「北朝鮮を攻撃せよ」に方向転換してパニックになるリスクのほうが大きい。かつて日本をミスリードした主役は、今のワイドショーのような新聞だった。

北朝鮮の「スリーパーセル」より恐いもの

自滅的な噴き上がりのキラーコンテンツが戦争であることは確かなのだが、国際政治学者というものは自分も含めた国家が消失してしまっては元も子もないわけで、いかにテーブルゲームのように外交や資源や産業や国民を扱っていようと、何の影響があるのかも想定できていない未熟な発言を繰り返すのは、やはり「セカイ系」としか言いようがない。つまり、暗記力だけで知性のかけらも無い富士通や IBM の AI みたいな教員というのは(もちろん、分析哲学や科学哲学にも、その手の英語秀才や物理秀才という無能は山ほどいるが)、自分が理解可能で説明可能な範囲だけを「セカイ」と考えているため、自動的に「セカイ」は理解可能で説明可能な何かであるという話になる。それを解析したり説明する手段がゲーム理論であろうとシステム解析だろうと弁証法的唯物論だろうと福音派キリスト教だろうとディープラーニングだろうと編集工学(笑)だろうと、それはそれで尊重に値する一歩ではあるかもしれないが、われわれ哲学者からすれば未熟という他はない理屈をどれだけ洗練してノベール賞を受けようとも、しょせんは有限で凡庸なヒトという生物の限界を決定的に押し広げるものではない。どれだけ初期条件を揃えて生理学や行動生物学の高度な理論を弁えていようと、ハーヴァードの教授ですら、自分の孫娘が明日際で勝手に敬ってみたり、蔑んだりする。あるいは落合信彦もビックリのハードボイルドなスパイ論議を公共放送で公言するといった、文化芸人さながらの振る舞いを東大の教員が平気でやってのける時代になった。僕は他でも書いているように、一定の条件で社会は権威という仕組みを維持するべきだと思っているが、もちろんそれに値しない人間は(少なくとも比喩として)抹殺し、学術研究の共同体や出版業界の利害関係あるいは行政機関の何とか委員などから放逐しなくてはならない。企業の経営者であろうと学者であろうと政治家であろうと芸能人であろうと、無能はきちんとマーケットから叩き出す仕組みが適正に働いてこそ、われわれはマーケットの働き(そしてそれを支える法律や行政制度)を一つの権威として信頼できるのである。

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