2018年02月18日に初出の投稿

Last modified: 2018-02-18

鹿持雅澄について調べてゆくと、彼の師であった宮地仲枝から儒学(南学)者の系譜を遡ることになるのは当然のことで、それゆえ漢籍を学ばなくてはならないと分かる。そういう次第で少しずつ漢文の初等的な勉強も含めて手を染め始めているのだが、古本屋で関連する本を眺めていると、その殆どが安岡正篤さんの著作であることに改めて驚かされる。

正直なところ、毀誉褒貶どころか中小企業のオヤジ経営者や暇潰しに漢籍を読みたがる年寄り(俺もそうか<笑)の他に読者は殆どいない(政治や中国思想史の学科で彼の著作を指定する教員など一人もいまい)と思われる人物だが、自民党を影で操っていたとか色々なことも言われながら、とどのつまりが自己啓発本の爺さんという扱いになってしまっている。ご当人の意志とは違うのかもしれないが、市井に出版物をばら撒くというのは、そういうことなのである。

僕は誰の著作であろうと他人に生き方を指南される筋合いはないと思っているので、処世術や人生論のようなものは誰が書いていようと全く読む気がしない。哲学者を名乗るということは、そういう傲慢さを敢えて体現し、凡俗からの冷笑なり非難に耐えるということでもあるからだ。そしてエッセイの類もしょせんは手慰みとして無視しても構わないだろうから、実はあれほど膨大に出回っている安岡さんの著作ではあるが、読んでもいいと思えるものは、『王陽明の研究』や『伝習録』といった彼の専門とした分野の著作を含めて、たかだか数冊にすぎないと分かる。もちろん、その数冊を残すだけでも敬服に値するわけだが、どういう経緯があったのかはともかく、日本の出版業界においては加藤周一さんを始めとする夥しい人数の「知の巨人(笑)」と同じく、マーケティング目的だろうとは思うが過大評価によって逆にまともな読者になりうる人々を遠ざけている感がある。

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