2019年09月06日に初出の投稿

Last modified: 2019-09-06

雑誌の『Newton』を始めとして数学の概念を中高生でも読めるように解説するというムック本やら特集記事が続々と出ているのだけれど、昔からたくさん色々な通俗本が出ている割には、書店で眺めてもイマイチなものばかりだ。

僕が思うには、こういう本の著者は、(1) 大学を含む institution に所属する数学プロパー、(2) 高校や中学の教員、(3) 科学ライターや最低でも学位=博士号を持ってる物書き、(4) 数学が好きで暇な株屋や保険屋やプログラマやいわゆる「独立研究者」ということになる。森田さんのような人物を敢えて (4) に分類したのは、彼らには (1) ~ (3) の人々が担うような責任がないからであり、何を言っていようが小林秀雄賞を受賞していようが、アマチュアはアマチュアだ。

そして、数学の概念を《結局はこういうことを言ってる》とか、《要するにこういうことに使える》という意味で分かりやすく説明できているのは、もちろん (4) の人々である。実地つまりは実際に自分たちの仕事で使っている数学の理屈から説き起こしたり、思い返して説明するのだから、理論的な根拠を知らなかったり系などの広い含意については知識や推論が不足しているにしても、それなりに導入としての説得力はある。もちろん、その中でも僕が推奨できると思えるような本を書いている人物は一握りであって、やはりたいていはアマチュアの浅い理解を延々と個人的な事情と共に書き綴るだけの馬鹿げた本だったり、偽の《わかりやすさ》に訴えるだけの駄本である。

(1) のプロパーや (2) の学校教員にも良い本を書く人はまれにいるが、そもそも受験参考書を書けるプロパーや高校教員が一握りであるという事実を知っていれば(中高生の諸君は、教科書や参考書の執筆者のプロフィールくらい確認しよう)、研究や授業ができるということと参考書や概説本を書けるということは違うのだということに気づくだろう。そして、だいたいにおいてプロパーというのは苦も無くスキルや概念をなぜだか会得できてしまった人々なのであり、それらをわざわざ本まで買って学ばなくてはならない人たちの《わからなさ》ということを全く想像できずに教科書や通俗本を書いている場合が多い。これは哲学についても同じだろう。"why is there something rather than nothing" という問いを分かってもらうのがいかに難しいかは、こういうテーマを掲げた本を書いている当人ですら、いわゆるハイデガーの存在論的差異を理解せずに、「ビッグバンの前には何が宇宙にあったのか」といった、実はどうでもいい話をしていることでも分かる。

(3) の科学ライターや学位を持っている評論家のような物書きについては、(1), (2) の人々と似たような事情は指摘できるが、まだ物書きとしての訓練を積んでいる(専門学校に通ったとかいう意味ではなく、何度か書いて編集者のレビューなどを通して経験を重ねたということ)だけマシとは言える。しかし、なぜかは分からないのだが、日本の科学ライターが書く啓蒙書や通俗本の類は、まず少ないし、多くの著作を手掛けている著者には思想的パフォーマンスのようなものが出版社から要求されているのか、著者のパーソナリティばかりが肥大化していく傾向がある。たとえば、竹内さんは別に科学者としての業績もないし、はっきり言って通俗書として何か特別に評価されているようなものを書いたわけでもないのだが、なぜか最新科学の通俗書を手掛けるネーム・バリューのようなものが出版業界や読書家に醸成されている。もちろんアメリカでも顕著にある傾向として、教科書を執筆するということには色々な、学術研究でプロジェクトを率いることにも通じる話ではあるが、多くの執筆者や査読者を管理するスキルなり人脈なり人望あるいは出版社や色々な関係各所との交渉力も求められる。よって、優れた(あくまでも多くの大学で授業に採用される「優れた」教科書という実績があってのことだが)教科書を編集したり執筆する筆頭著者には、学術研究とは別に大きな評価や賞賛が集まる。これと同じく、通俗書に対する評価は学界としては小さなものだが、それなりによいもの(つまり売れて高く評価された本という意味だが)を書いた人物は、テニュアの付いた転籍のオファーがたくさん届くようになる。したがって、科学ライターのような人々にも、実績に応じて見返りがあってもよい。しかし、日本ではたいてい評論家個人のパフォーマンスを宣伝することが先になってしまい、いわゆるパブリシティだけで売れるという仕組みになってしまっているため、販売実績はあっても学術的にはクソという通俗書ばかりが横行することになる。これではどうしようもない。

たとえば一例を挙げると、「対数」は高校数学で登場すると多くの生徒(もちろん、僕もその一人だった)を悩ませる概念の一つだ。そして、対数について解説する通俗書の大半は、たとえば対数は指数の逆であると説明すれば「わかりやすい」と思い込んでいるような、愚劣と言ってもいい高校教師や塾の講師や大学教員によって書かれていたりする。こんなことで対数を四則演算並みに気軽に《扱える》ようになると思っていることこそ、こうした著者たちが読者である生徒や社会人の《わからなさ》を理解していない証拠なのだ。言葉で定義したくらいで演算や処理というものは《扱える》ようにはならない。そして、僕ら読者が通俗本に求めているのは、数学という学問としての解説や、《言葉としてかんたんな》定義などではなく、そういう表現なり式が現れても「はいはい、で?」と、それが意味する内容を即座に《扱える》ていどの素養や感覚を身に着ける手立てなのである。

現実の用法では、自然対数で ln(5) だけが単独で議論されることなどないだろう。そんなのは、それこそ対数という概念について議論するときくらいのものだ。僕らが接するのは、ln(5) + ln(x) = ln(8) のような式であり、対数同士の足し算と掛け算の関係を理解することで x = 8/5 と即座に出てくる。このような式の場合、僕らが知りたいのは未知数である x にほかならず、自然対数どうしの計算であることを知っていれば底が e であるのは自明だし、それ自体を何か計算する必要はない。また、"ln" という自然対数関数そのものについても、こういう場合には何か特別な思考が必要なのではなく、対数を扱う基本的な規則性を当てはめられることさえ分かればいい。このような計算において、対数が指数の逆であるなどと言ったところで混乱するだけなのは当然である。それがどうしたというわけだ。

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