2018年12月12日に初出の投稿

Last modified: 2018-12-13

日頃から街中を歩いていて思うのは、『世界ふれあい街歩き』で紹介されるヨーロッパの街と比べて、日本の街頭は公道を住民が勝手に私物化しているということだ。何度も言っていることだが、その国民が自ら尊んでいる価値観こそ、その国民に欠けているものだ。イギリスなんていう田舎国家の人間が「騎士道」とか「ジェントルマンシップ」などと口にするのは、もともとフランスのようなヨーロッパの中心からすればブリテンの人間なんて田舎者だったからだ。そして、どこぞの国家で「和を以ってなんとやら」などと言っていたのは、古代から夥しい数の内戦や内乱を繰り返してきた野卑な習俗の国家だからである。よって、日本人が公共の名における世間体を個人の価値観よりも優先するなどというのは、結局のところ社会科学的に言って何の根拠も無いデタラメであり、寧ろ日本人の習俗というのはエゴイズムの衝突をムラの掟などで調整するものだったと思う。

街路を見れば、それは明らかだ。大企業から零細に至るまで企業の業務用車両は道路交通法など地球上に存在しないかのような駐車違反をしているし、交番が目の前にあっても警察官が車両をどけるように注意している場面など、生まれてから見たことがない。そして、飲食店の看板は歩道を半分ほど塞いでいるのが当たり前だし、下町では個人宅の前の道なんて植木鉢や自転車が雑然と置かれていて庭のようになっている。

もちろん、これは凡俗の「所定の行動パターン」である。何もヨーロッパの平民が優れているわけではなく、ヨーロッパの公道に無駄で独りよがりなものが置かれていないのは、逆に置いておくと盗まれるからなのだ(笑)。

ともあれ、こうして日本の往来は別に海外と比べて虚勢を張れるようなものでもない。しかし困ったことに、日本には独特な「社会学者」と呼ばれる一種のルポライターたちがいて、センチメンタルな独り語りのエッセイを書くのを仕事としている。そうした人々は、このような街路の様子を「下町」だの「文化」だの「人情」だのという言葉で飾り立て、細々として脆弱そうに見えながらも何ほどか強い生活力なるものを感じさせるという、意味不明な論評を並べては、結局のところ「社会科学的な素通り」を繰り返す。ちょうど、外国人観光客が三島駅のプラットフォームで、轟音を立てて通過してゆく新幹線「のぞみ」をビデオ撮影するようなものだ。しかし、そんなことをやっても帰国した国で公共交通機関の行政には 0.1 mm もインパクトがない。せいぜい YouTube にアップロードして "Crazy Japan!" とコメントを書いて終わるのが関の山だ。同じく、感受性が強くて「優しい」人々に訴えるエッセイを書き綴るだけでは、自覚があろうとなかろうと消費文化の一部でしかないのだ。

そんなものは、そもそも日本の「景観」ではない。店先にどれだけ看板を並べようと、そんなものを安っぽいサイバーパンク映画の舞台みたいに喜ぶのは、一部の勘違いした外国人だけなのだ。そして、いくら地元の人間として先祖から何百年と住んでいようと、公共の道を自由に使う権利などありはしない。それこそ、先祖から受け継いだ土地を勝手に使っているだけのことだろう。だいいち、公道というものは自分たちの税金だけで作ったり整備しているわけではなく、たいていは地方交付税という国税から振りなおされた資金を使っており、形式的には国民全ての納税によっているのだ。

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