2019年01月28日に初出の投稿

Last modified: 2019-01-28

<完璧>を求めるレッスン。二人のセッションは誰もみたことがないクライマックスへ― アカデミー賞が飛び付いた才能と狂気 4月17日(金)TOHOシネマズ 新宿 他 全国順次ロードショー

映画『セッション』公式サイト

昨日、「アマゾン・プライムでは、もうすぐ観られなくなるから」と連れ合いが言って、何かのドラマらしき映像を流し始めた。「流し始めた」と書いたのは、僕は隣で寝たり本を読んでいて観ていなかったからである。が、隣で「えー、これは分からない」とか連れが声を上げているので、何の映像なのか(まだ映画だとすら気づいていなかった)と一緒に観てみると、テンポが速いとか遅いとかオッサンが若者に向かって怒鳴っている・・・なんだこれは。初めは、観ていて凄く違和感があった。なぜなら、場末のアマチュア楽団(だと思っていた)でこれほど厳しい要求を出す指揮者なんて、たいていは自分がプロになれなかった腹いせのように、何が「完全」なのかもわかっていないくせに安っぽい完全主義を掲げる無能に決まっているからだ。

そうして暫くすると、どうも舞台はアメリカの場末にあるアマチュア劇団の練習場などではなく、バークリーのような音楽学校であるらしいと分かってきた。練習場のシーンだけだと分からないし、アマチュアでも指導者を「先生」と呼ぶことがあるので、セリフだけでは彼らがどういう境遇なのかつかめない。フレッチャーが「誰がこんなバカを入学させたんだ」と言って、初めて学校だったと分かった。

気が付くと、連れ合いは途中で夕飯の支度に離席してしまったが、僕は最後まで観ていた。ドラムスというのは本当に厳しい訓練をしているし、演奏している最中でも X JAPAN の YOSHIKI が民放の安っぽい音楽番組でも失神してしまうことすらあるのはご存知だろう。もちろんパフォーマンスの場合もあるにはあるが、昔から畏怖に値するパートだと思っている。そして、激しい練習だけではなく、メンタルの駆け引きにおいてもしんどい作品だと思って観ていたのだが、やはり最後の演奏シーンでカタルシスというか、やや歪んだメンタルのまま衝突し合っていた教師と生徒が、どちらも音楽という一つの目的なり動機なりに向かっていった姿をうまく描いていたと思う。

確かに、後から改めて全編を観た連れ合いと話したように、『セッション』はスパルタ式の教育こそ天才を生み出す必要悪だ・・・などと主張している作品ではない。おまけにアンドリューの単純な成功物語でもない。実際、最後のシーンまでアンドリューは子供じみた野心やコンプレックスを抱いていたように思う。最後のシーンは確かに「一つの」カタルシスだし、「一つの」良きシーンではあるが、しかし演奏が終わったあとも彼ら二人が何かを見つけ出して、それまでの歪んだ思いや人間関係を改めることになるのかどうかは、実は分からないのである。

さて、この作品について後から調べてみると、賛否があるらしい。そして、酷評している筆頭に上がっているのが菊地成孔さんという方の批評なのだが、これに対峙しているとされる町山智浩さんの批評を一緒に眺めてみると、やはり菊池さんが指摘しているように、映画としては一定のパターンで作られているのだが、彼ら登場人物の行く末がそこで描かれたとされるようなパターンにはまるとは思えなかった。アンドリューは一念発起しなおして、やがてプロの演奏家になるんだろうか。フレッチャーは、最後の場面での演奏が認められて、どこかのレコード会社から話が舞い込む? そんなことぜんぜん分からないね。『セッション』は、文字通りあの最後のセッションに至るまでの話でしかないと思う。でも、観ていろいろと感じたり考えさせられるのは良かったと思う。

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