2018年02月17日に初出の投稿

Last modified: 2018-02-17

ここでは何度となく、我々ヒトは大学教授であろうと市井の会社員であろうと有限なる能力しか持たない生物として例外なく凡庸だと言っている。その意味で人は誰しも「凡人」であり、公共政策や思想というものは、それを踏まえて打ち建てられなければならない。つまり政策を考え出したり吟味したり実施したり享受するのは、常に凡人である。それは、適用性が高く多くの人々に受け入れられやすい妥当な仕組みや考えを示したり実施するという実務や実利という観点だけで言っているわけではなく、厳密に学術としてもそれが正しいと思うからだ。僕は社会科学の理論や議論というものは、結局のところ理想や是非をどれほど論じても大勢に認められたり共同体の大半を実質的に支配できる理屈でなければ価値がなく、また、そうした理論の役割や価値とはまさにそういう指標で計られるのが現実でもあるし、そうであるべきだとも考える。もちろん、これは単純なリアル・ポリティクスのような人心掌握とか「ヤクザに学ぶ交渉術」の類ではない。

それにしても、かつて吉本隆明のような人々は「大衆」と呼ばれる得体の知れない何かに思想があると仮定したのだが、1980年代に一世を風靡した都内の物書きたちの限界は、やはりその広告代理店的なプレゼンスという軽薄さよりも、やはり思想としての浅薄さというか、自分たち自身がもつ思想の底の浅さゆえに「凡人にも思想を認めてやっている」というスタンスが常に感じ取れることにあるのだろう。岩波書店から本を出して「知の巨人」などと馬鹿げたラベルを死体に括り付けられている辺境アジアの凡庸な物書きと、同じ僻地に暮らしている主婦や老人のいずれにも「思想」があると本気で主張し思考するためには、口先で消費者としての彼らにおもねるという博報堂的な「生活者」のイメージをばら撒くだけでは、当然ながら思想家としては二流以下である。都内の田舎者どうしの人間関係で、どれほど多くのクズ同然の本を書けていようと、その程度では(既にそうだとも言いうるが)数十年も経てば『共同幻想論』を始めとする数々の著作は、古本屋の店先で投売りされている中にすら残らなくなるだろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook