2018年06月19日に初出の投稿

Last modified: 2018-06-20

僕は、或る宗教の教祖という個人が何を考えていたのかということには強い関心がある。

たいていの場合、過去の聖人君子については、彼らが書き残したり、彼らが弟子や知人に語ったと言われるような事跡でしか、当人が何を考えていたのかを推し量ることができない。しかし、それはそれで色々な可能性が残されているということだから、僕にとって古典の研究というものは、現代的な観点で議論を押し進めるようなアプローチと同じように重要でエキサイティングな仕事だと思う。図式主義的に単純な線対称の枠組みを仮定していることを断った上で言うが、我々の知性による探究というものは、未来に向かってだけではなく、過去に向かっても開かれているのである。そして、未来は未だ到来していないという限界によって未知のままに留まり続けるし、過去は過ぎ去ってしまって十分な量の事実が残されていないという限界によって未知のままに留まり続ける。しかし、それがいったいなんだというのか。

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