2018年01月22日に初出の投稿

Last modified: 2018-01-22

僕はここ数ヶ月のあいだに、それまでは「哲学に携わる者」とか「哲学に関わる者」などと自嘲して遠まわしに表現してきたものを改めて、直裁に自分自身について「哲学者」と書くようになった。もちろん、たいていの人が誤解するようなニュアンス、たとえば碩学とか物知りとか深遠な真理を心得ている者とか、そういった意味合いを伝えるために使っているわけではない(それに、たとえばアメリカで "philosopher" という言葉にそんなニュアンスがあると言ったら、恐らく多くの人には色々な意味でバカ扱いされるので止めた方がよい)。しかし、少なくとも「何事か重要だと思うことを真摯に考え抜く決意をもって問い続けている者」だという意味では、自らをそう呼んでもよいのだろうと思っている。したがって、誰かが通俗的な語義を勝手に振り回して「おめーなんか、テツガクシャじゃねぇよぉ~」などと周りでガキのように騒いでいようと、そんなことは哲学者である我々にとってはどうでもよいことである。

色々なところで何度も書いているように、哲学は自尊心や自意識(自己についての意識 self-consciouness ではなく、他人からどう見られたいかを気にするということ)のためにやるものではない。そんなものは結局のところ、一種の娯楽かエンターテインメントのようなものであって、そんなものが満たされようとどうなろうと世界や自分自身については何も問うたり考えたことにならないのである。哲学として重要なのは、何について問うのであろうと、何が根本的かつ本質的な問いであるかを弁え、それについて正しく問いかけて、正しく考え、正しく言い表し、正しく議論することのみである。それ以外の些事は、少なくとも何か一つの問いや問い方にコミットしている者にとっては余計であり無駄であり無益であり、可能な限りで打ち捨てたり拒絶したり無視するべきであろう。

かようにして、たとえば街中を歩いていても、会社にいても、あるいはオンラインでページを眺めていても、厳しく自らを律しておれば精神を保ちつつ馬鹿げた無駄な反応を捨てられるわけだが、まだまだ僕は修練が足りていないようだ。(無駄な反応を捨てるというのは、用心しないとか注意しないという意味ではない。)

簡単に言うと、クソみたいなものに惑わされないためには、まずクソを見ないことである。クソなど見てもしょうがないのだ。次に、もしクソを見てしまったら、心に留めないで直ぐに忘れることである。そのためには、次々と自分にとって重要なことは何なのかを考え続けることが効果的であろう。そして、不幸にもクソのことが心に留まってしまった場合には、それについて何か感想や意見を持ったり何かを連想しないことが望ましい。クソはクソでしかない。クソについて、臭いとか汚いなどと当たり前の感想を持ったところで時間と精神活動の無駄でしかない。そんなことで何か新しいことを発見する可能性は、我々がクソを専門に研究するのでもない限りは、ゼロであるし、ゼロであると断定して生活を続行するのが哲学者としてのコミットメントというものである。

そして同じていどに大切なのは、この宇宙を構成する物質や法則の大半は、そんなことはどうでもよいスケールの圧倒的な事象で満たされているということだ。そのスケールを地球上に生息している少し変わったサルどもの集団とか、その中に幾つかいる個体にまで狭めて着目したとしても、そんな個体の一体や百体がどう振舞っていようと、それこそ宇宙全体の中では瑣末としか言いようがない。もちろん、その瑣末な幾つかの個体が我々自身に何らかの影響を与えることがあるという点も忘れてはならない。それは親だったり友人だったり連れ合いだったり子供だったり、あるいは教師だったり生徒だったり取引先だったり敵対者だったり被害者だったりするのだろう。つまり、こうしたスケール感の自由な操作とか、それにもとづく値踏みを厳格かつ感情に動かされずに粛々と実行することが望ましい。

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