2018年12月23日に初出の投稿

Last modified: 2018-12-23

最近、経営組織論から公共経済学や哲学に至るまで(笑)、ラーニングだの勉強だのと暇な連中が大騒ぎしているわけだが、そもそも多くの人々が落ち着いて何かを学ぶ余裕がないのは、どう考えても実生活とはもともとそういうものではないからだ。江戸時代の農家で、いったい誰がゆっくり本を読む時間などあったろうか。平均的な凡俗の暮らしというものは、家庭生活と生きるための労働によって終始するのがあたりまえであった。生活水準が平均してどれほど向上したとはいえ、時間や可処分所得に余裕が出てきたら娯楽に向かいやすいのは凡俗の自然な行動である。人が時間さえあれば全ての社会階層で勉学にいそしむなどという行動特性をもつ「生物種」であったなら、量子力学や不完全性定理や免疫療法など2000年くらい前にとっくに誰かが定式化していたことだろう。

もちろん、これは僕も含めた凡人の生き方なり考え方を揶揄したり、あるいは正当化するために書いているわけではない。

田舎のヤンキーだろうと自民党の代議士だろうと、あるいは、それこそ皇族やハーヴァード大学の名誉教授だろうと、機会があれば何かを学ぶべきだろうと思う(少なくとも、僕が自分のサイトでウェブ制作業界のディレクターや経営者、IT 業界の若手技術者たち、そして哲学のプロパーを「無能」呼ばわりしているのは、そういう理由からだ)。しかし、これこそ啓蒙や教育あるいは出版においても、長い歴史をかけて色々な手法や制度や技術を積み上げても、はっきり言ってなかなか成果が上がらないことなのである。もちろん、義務教育制度によって、自分の名前を書けないという人は江戸時代に比べれば大幅に減っただろう。しかし、そんなことだけで社会が良くなるわけでもないし、当人の暮らしが向上するわけでもないのだ。資格マニアが日本中に何万人といようが、われわれの社会制度の施行状況が目に見えて高い水準へと移行するわけでもない(なぜなら、皮肉なことに大多数の資格マニアたちは、えてして企業や組織の決定に何の影響もない人々だからだ。要するに色々なスキルを身に着けていようと、しょせんは一人で自分のためだけにしか活用できない人たちなのであり、さらに資格を取得する目的の多くは転職なので、現実に活用できるスキルとしてまともかどうかも不明なのだ)。

しかるに、ここ数年のあいだに出版されているような、お勉強しましょうとか、こうすれば効果的に勉強できるとか、勉強とはそもそもなどという本は、僕らが小学生の頃にゴマブックスで読んでいたようなレベルのハウツー本と社会科学的な見識においては殆ど何も変わらないと言える。勉強について何事かを言われたくらいで、勉強するようになるわけがないのは、いつの時代のどういう人々だろうと同じである。

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