2018年11月06日に初出の投稿

Last modified: 2018-11-06

何らかの解説とか説明を書くという作業は、もちろん学術研究の成果を報告したり、仕事で稟議書を出すときに誰もがやっていることだ。そして、多くの人は正確さや厳密さと分かり易さがトレードオフになりやすいことも弁えていることだろう。正確さと分かり易さがトレードオフにならず両立するのは、概念としての専門用語を使ってもいい人々でのやりとり(観念をあらわす専門用語でやりとりしても、お互いに誤解したままというのはよくある)か、あるいは簡単な式を使う場合だけであろう。

もちろん、何事かの解説や説明には、それが嘘偽りではないという誠実さという条件もあると思うが、ひとまずここではそれは要求しないで自明としておく。それから、分かり難い説明が必ずしも厳密な説明だというわけでもないので、無用な分かり難さを排除したいときに、それを「厳密でなくてもいい」などと間違ってアドバイスしてはいけない。たとえば、稟議書で何かを購入する理由に、それが必要となった経緯として長大なストーリーを書くような人もいるわけだが、そういう愚かな説明をやめさせるために「そんなに細かく書かなくてもいい」などとアドバイスすると、間違って正確さや厳密さを軽視しているように誤解される恐れがある。

物事を厳密に説明するとか、分かり易く説明するということが、具体的にどういうことを意味しているのか、実際には殆どの人が何も考えていない。所定の要件では必要な厳密さが、読む側の見識が足りないせいで「分かりにくい」と不当に改変される可能性もあるし、その逆に所定の要件を既に満たしている文章なのに、書く側がペダンティックな動機で文言を学術用語や外来語や漢語で書き直すかもしれない。そして僕が思うには、大半の通俗書というものは、こうした吟味をせずに書かれて、編集され、公表され、読まれているように思う。そして、そういう無頓着に扱っているようなところで、人の思想というものは少しずつ歪んだり突き固められたリ崩壊してゆくのだと思う。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook