2019年05月01日に初出の投稿

Last modified: 2019-05-01

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最近はミュージシャンや俳優など知らない人が増えてきた。というか、昔から一発屋で後の業績が続かない人は音楽でも演劇でも多々あるわけだけど、それらをいちいち重大ニューズであるかのように取り上げるノイズが大きすぎる。僕が芸能人について熱心に情報を得ていないという欠落は確かに認めてもいいが、いずれにしてもそういうことには限度がある。秋元康が手がけるアイドルの名前を全て言える人を思い描いたとき、そういう取り柄しかない人物に、何か人類史的なスケールで貢献できることがあるとはとても思えない。よって、そうした欠落が責められる脈絡は非常に狭いスケールのものに限られるだろうし、当人にとっては切実かもしれないが、やはり人類史的には些事でしかなかろう。およそ哲学者として生きる者が何を措いてもコミットするべき理由は無い。

それに、この引退したという人物が大多数の日本の成人が知っているような芸能人なのかと言えば、知ってる人の方が少ないのではないか。大河ドラマや朝ドラや民放のドラマで主演したわけでもなく、ウィキペディアで確認した限りでは、はっきり言って端役しかやってないわけで、皮肉なことに「引退した」という報道が最も大きなパブリシティだったと言っていいだろう。

こういう些事を改元などと同じ見栄えで並べてしまう技術的な無差別性というものは、《結果バイアス》とか《悪平等》とか《絶対主義的民主主義》などと昔から揶揄されてきたものであり、技術や科学がイデオロギーとは無縁であると言い立てる人々の思い込みこそが大きな災いを人類に引き起こす証左とも言える。

なお、「人類史的なスケール」とは言っても、セカイ系のように宇宙の崩壊を隣のミヨちゃんと一緒に仲良く食い止めるといった話ではない。感覚としては見ず知らずの人にも影響を与えるようなスケールであり、もっと規模としては慎ましいものだが、これを「社会的なスケール」と書いてしまうと、逆に夫婦や家族や友達といった小さすぎるスケールに誤解される。そして、そういう小さなスケールでいいなら、芸能人の名前を知っていることには何らかの効用があるかもしれない(それが凡俗の生き様や価値観というものであり、哲学者、ましてや他人が良し悪しを言うべき筋合いではない)。

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