2019年06月28日に初出の投稿

Last modified: 2019-07-11

ZAP

倫理学なり道徳なりを原理原則の話として展開するには、ひとまずの目標として universalizability を据えてもよいだろう。それが現実には、できるだけ多くの人々に当てはまるか受け入れられるに過ぎない方針や規則であり、しかも過半の人々にすら妥当しないか許容されないかもしれない原則だとしても、その時点で得た結果だけで普遍性を否定できるとは限らない・・・という逃げ口上を続けてよいという基準も必要だと思うが、とにかく一見したところの正しさから初めてゆくしかない。 そういう、一見したところの正しさとは、建前のような決まりきった原則として表現できる言明だけだとは限らない。実際、このような議論の多くは建前から初めても納得する人が大していないという困難がある。「人を殺さず」という原則から始めたところで、いまや小学生ですら死刑制度や緊急避難や正当防衛や戦争全般を持ち出して、それが子供じみた口答えの類であろうと反論は可能である。現今の国家や社会においては、その手の軽快なクリティカル・シンキングのテクニックを幾つか心得ているだけで、義務教育を終えていなくても、リバタリアンと同じような身も蓋も無い正論で相手を打ち負かせてしまうだろう。「人を騙してはいけない」と言われたら政治家や IT ベンチャーの社長の名前を(その人物について何も知らなくても)新聞で見た順番に幾らでも出せば、おおよそ妥当な反論になりうる(こう言われて悔しければ、政治家やベンチャーの経営者は、せめて自分の子供に全てを打ち明けても、子供が自分の出生を恥じぬような人生を送って業績を残すべきであろう。いや、これこそが普遍的な道徳的言明と言うべきであろうか)。 したがって、だいたいは僕ら自身の生活経験から導いた、「マイクロ・エシックス」などと呼ばれる卑近な事例から始める方が、否定するにしても自分自身の言動にも当てはまる(いわゆる「ブーメラン」)のだから、そう簡単に形式的というだけの反論を投げつけるわけにもいくまい。 たとえば、さきほど帰りがけに僕が歩くのと反対側の歩道で見かけた事例では、歩道を若い男女が犬を連れて右側通行しており、対向からやってくるあらゆる歩行者に道を譲らせて知らぬ顔で歩いていく。まるで自分たちの他に人が宇宙に存在しないかのような、凡人にありがちな救い難い傲慢さだ。恐らくは夫婦と飼い犬だろうが、このように「愛」などと安っぽく凡人が口にする観念によって、凡人はいくらでも不道徳な行いの免罪符を自分で自分自身に発行するものである。もちろん、現代国家の財政と同じく、必要になったらバカは幾らでも自分自身に「親の愛」とか「夫婦の絆」とか「美しい日本人」などという多種多様な安物の免罪符を発行するため、それが死ぬまでに致命的なインフレを引き起こさない限り、バカは安からにバカのまま死ねるというわけである。これは宇宙論的かつ哲学的な幸福と言ってよいだろう。こんな決定的とも言うべき人の愚かさに、哲学は絶対に勝てないのである。 僕は哲学や道徳にはやはり社会科学的な意味での限界があると思っているし、もちろん自然科学的な限界は(自明とまでは言えないとしても)相当な程度で説得力をもっているだろう。なんとなれば、人類が死滅してしまえば、その時点までに人が哲学において何らかの決定的な成果を上げていない限り、人類は必然的に何かを遣り残すことになるからである。それは、絶対に達成できないものであるから、もしそういうものが原理的に存在すると論証できるなら、哲学にはそれがもたらす(どういう意味であれ)成果に限界があるのだから、それを超えたところで何かを正しく明解に議論できるなどという仮定のもとで厳密かつ妥当な論証はできないがゆえに、哲学には《外部》、あるいは古臭い言い方なら《下部構造》でも何でもいいが、ともかく哲学によっては手が着けられないところがある。よって、倫理学についても何らかの《外部》があるという、有限性なり可謬性なりクロージャを可能性として認めるところから始めた方が、正しいかどうかはともかく現実的だし、人としての精神衛生にも良いと思う。普遍性を目指すのはともかく、仮定して始めてしまうと、人の愚かさに幻滅しない人はいないだろう。

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