2018年03月10日に初出の投稿

Last modified: 2018-03-10

一昨年は数学で「在野」とか「独立研究者」という言葉がブームだったけれど、他にどういう分野で似たような人たちが業績を上げているのだろう。というか、それ以前に数学の人物が在野の研究者としてどういう業績を上げたのか全く知らないし reprint サーバに何か出ていたと誰かに紹介されていたという記憶もない。彼がプロパーと他の分野や公衆とのあいだでアウトリーチの役目を果たすような立場だというなら分かるし、そういうスタンスが安定して維持できるような出版・マスコミ・行政などの取扱に期待したいと思う。

でも、単に専門家と称して通俗書を出版してるだけというのでは、キャバ嬢や女子高生にドラッカーを読ませてどうのこうのみたいなものを書きまくってるクズどもと同じだよ。はっきり言っておくけど、「もしドラ」なんて本が何億冊売れようと日本の企業や勤め人のマネジメントスキルは 1mm も変わらない。同じく、数学の人物が奇怪な読み物をどれだけ出しても、数学ができるやつは最初からできるし、できないやつはいつまでもできない。そして、数学のできない人(僕がそうだ)が数式の単純さだの図形の美しさだのをもてはやしたり、数学者の思想について素人哲学を開陳した本をあれこれと読んだていどのことで、数学の何らかの分野に興味を覚えて実際にチャート式や Focus を手に取るかと言えば、そんなことは断じてありえないのだ。

成果としてのキレイなグラフィックスは楽しむが、基礎になっている「数学」は専門家に任せようという人を増やして、専門家への信頼とか付託に寄与したいという目的なら分からなくもないが、でも、通俗書にそんな社会科学的な効用が本当にあるのだろうか。僕は、これまでの啓蒙とか大衆出版の歴史なり<実績としての我々の社会>を眺めていて、通俗書や通俗的なお喋りを繰り広げる人々に、そんな力はないと思わざるをえない。もちろん、ゼロとは言わないので、数千年くらい経過して、社会科学的に有意の差が読み取れるくらいの効用があるかもしれないと期待してもいいのだろうけれど、そんな期待ができると立証できる者がいるのだろうか。

僕は、在野だろうとプロパーだろうと、「研究者」の役割はそんなことではないと思う。

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