2018年02月20日に初出の投稿

Last modified: 2018-02-20

高い地位に就いた者は相当に高い能力があり見識を持っている可能性があるから信じるべきだ、という論法で常に権力の不正を擁護したのが、先日自殺した西部邁という元東京大学教授の「評論家」であった。そして「大衆」はバカで無責任であるとコケにし続けた。

木村草太と西部邁に共通する空虚な大衆蔑視

もちろん、マスコミていどが拾い上げてくる人材にロクなものがいないのはよく分かるし、「気鋭」どころか「知の巨人」ですらロクなのがいないということも既に書いてきた。それは分かるのだけど、権威という仕組みそのものが不要であるとまでは思えない。

我々の社会においては、共同体の成員は他の成員に一定の仕事を分業してもらい、その代わりに一定の判断の裁量を権威として与える。こういう効率化がヒトの共同体を他の動物よりも発展させたり強くしたと考える。もちろん、思想によってはそういう「発展」の良し悪しを問うことはできるし、個々の分業についても本当にその条件で任せるべきなのかどうかは、常に我々が代議制において自問しているように、重大なテーマだと言える。或る人物に一定の裁量を与えるに足りるだけの条件が何であるか、そして各人がそういう条件を満たしているかどうか。こういう個々の分業について、僕らは正しい基準をもっていないかもしれないし、そもそも基準を適切に適用していない可能性もある。しかし、だからといって自分自身がいまもっている判断力や判断の基準だけで、他の成員に付託している権威や裁量の余地を全て取り上げるなどというのは、単なる偏執症である。そもそも現代の国家に生きる民として、自分で勝手に他の国と条約を結ぶ権利など(もともと)ないし、裁判官の代わりに他人へ死刑を宣告する権限もないのだ。

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