2018年01月26日に初出の投稿

Last modified: 2018-01-26

『論語』や『孟子』などと、四書五経の一部に取り組もうとしている。簡潔に言えば、彼ら筆者が何を考えていたかということは正確には分からない。言語や認知能力の問題からしても、我々は当時の人間でもなければ中国人でもないし、ましてや当人ではないのだから、彼らの意味合いとか脈絡を全て我が事とするのは不可能であり、逆に何が可能なのかを突き詰めていくのが古典研究の現実的で適正な手順というものだ。彼らの置かれていた当時の事情を理解したり、人としてどう生きていたかという、恐らくは絶対に記録として残っていない事実を手にしているわけでもない我々が(これは、すぐ目の前にいる相手と言葉を交わす状況でも当てはまる)、まるで孔子らの思考を自らにおいて再現したいとか、彼らのクオリアを追体験したいかのような目的をもって漢籍を読むなどというのは、およそ学術的な目標とは思えないのである。

したがって、漢籍を読むなら読んで、そこから何をどう考えるかが大切である。その読み方の是非は専門に学んだり研究するのは当然だとしても、それはそういう終わりのない(と、古典研究についてしばしば言われるわけだが、実は終わっていて何も議論することがない可能性もある)作業にコミットすると決めた人々に委ねておくべきことであり、読者の多くはそういうことに拘るよりも前に進んだ方がよい。

巧言令色鮮し仁。だからなんだというのか。そこを自分なりに理解したり整理しつつ破綻しないで自分の考えや感想を組み上げていく地道な努力なしに、仕事に役立つ論語だの、人生を変える易だのと、通俗保守の連中に多い馬鹿げた紙屑のような本など開いていても無意味である。

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