2018年03月09日に初出の投稿

Last modified: 2018-03-09

日本自動車連盟(JAF)の調査によって、横断歩道を渡ろうとする歩行者がいる状況にも関わらず9割の車が一時停止をしていないことが明らかにされた。

9割が違反!? 横断歩道に歩行者がいたら停止義務があります!

よくアンケートでドライバーへ「交差点で曲がるときに一時停止するか」とか「交差点で歩行者がいなくても停止するか」という質問を出してるわけだけど、こういう質問への答えというのは、恐らく心理学の厳密な推定をやれば集計なんてしなくても回答の分布は分かりそうなものだと思う。恐らく、社会学者や社会心理学者の実施している調査というのも、その多くが言葉による印象操作や誘導を自覚せずに盛り込んでいたり、質問の主旨からすれば回答の分布が殆ど自明と言えるようなものでしかないという場合があろう。

まぁ、地道にコツコツみたいな美談が好きな凡人は学問の世界にも多いので、こういうリアリズムのようなスタンスは好まれないのだろうと思うけど。結局、日本でオペレーショナル・リサーチ(まだ訳語すらない)とか意志決定理論とかゲーム理論が、全くの口先だけでしかなく、企業やパブリックセクターでろくに採用もされず大きな成果も上げていないのは、こういうものを採用すると、これまでの手法に頼ってきた連中が無能であることがバレてしまうからなんだろう。たぶん、これから続々と実用化されるロボットにしても同じことが言えると思う。ものづくりだなんだと言ってきたことが、実は簡単にシミュレートできてしまうか、二日や三日ほど操作を学んだ若造でも従来の基準を越える精度で成果を出せるような、しょせんはヒトという生物の生理的な限界でしかものを考えていない技巧の話だったことがバレてくると思うんだ。そういう、ヒトの限界を越える状況で何をどうするかが僕らの現実的な課題なのであって、シンギュラリティなどあろうとなかろうと、既に僕らは自分たちの生理的な限界ゆえに技術を要する作業の多くを手放さなくてはいけないという状況に置かれつつある。

さて、それはそれとして再びドライバーの話に戻ると、僕がとりわけヒトの生理的な限界を超えて判断したり対処しうる(かもしれない)自動運転技術と自動運転車両の普及に期待しているのは、どう考えても人間のドライバーは大半が生理的にも無能だし、法律を遵守するという点では道路交通法などあってないようなものだからだ。他の都道府県からやってきた人がしばしば Twitter やブログで書くように、大阪では一時停止の標識を Coca Cola の看板と勘違いしている。交差点ですきがあればいつでも曲がってくる。後続車がいようといまいと急停止する。タクシーですら夜間に無灯火で走る。ウインカーを点けずに曲がるのが常態化している。大阪府警の玄関前ですら屋号を大きく側面に塗装してる商用車が信号無視。御堂筋のような幹線道路でも走りながらゴミ(タバコ1本じゃなくて吸い殻入れの灰もろとも)を窓から投げ捨てる。パトカーが真後ろを走っていても一旦停止せずに左折する(そして何も警告しない大阪府警)などなどという場面に出くわす。僕は電車で他人に気を遣うのが面倒になって、退社したら歩いて帰り、出社するときも本町から堂島まで歩いているわけだが、徒歩にしたからといって安全に移動できるわけでもなければ、ウンザリさせられる目に遭う機会が減るわけでもないのだ。とにかく毎日のように(歩行者や自転車などについても山ほど言えることはあるが)車について気付くだけでも山ほど危険な光景を見ている。僕が当サイトで歩行の話を「サバイバル」だと書いているのは、こういう事例が大阪ではありふれたことだと分かっている人であれば、何の誇張でもないと理解してもらえるだろうと思う。そして、もちろんどこの国でも言えることだが、こういう人の弱さやだらしなさを「悲哀」として歌詞や小説として描き、他人の同情なり諦観をうながすという卑劣な風習が人間の文化として継承されてきている。「堅苦しいことはやめにしましょうや」みたいなフレーズが、しょせんは凡人でつくられている社会の潤滑油なり処世術として正当化され、建前や権威や原理原則を長期にかけて少しずつなし崩しにしてゆく。

個人として生きるということは、何も他人との人間関係を軽視するとか、自分の価値観を押し通すということではない。どのみち凡人どうしの社会において、凡人が考え付くていどの個人としての見識や原則など、いかに哲学者を名乗ったり大学院を出ていようと、大したことはない。しかし、個人としての見識をもって相対するという姿勢(これを「サバイバル」という言葉の意味だと思ってもらっていい)を維持しなければ、大勢の他人がお互いに自分たち自身の弱さを過小評価するためにこしらえた伝統や習慣や礼儀作法や処世術にたやすく呑み込まれてしまう。同じ凡人ではあってもサバイバルに無頓着な人々は、そのまま生きてもらって、他人に無自覚なまま迷惑をかけ続けてでも何の不自由なく生活していればそれでいいし、自らの愚かさゆえに損害を被れば自業自得というものである。もちろん、われわれは同じ凡人として、そういう人々でも保護するような福祉国家を維持しなくてはならない。正義や公正という徳目を維持するにはこれほどのコストがかかるのだ。いずれにせよ、歩行論のページでも書いているように、僕は他人に交通ルールを説くというようなアプローチは採らない。自分が他人の危険な行為をどう避けるかということだけを「対策」として提案するつもりだ。こういうことを考慮できる者は率先して危険を回避すればいいのであって、無頓着な人間が他人を避けさせてマッチョな自尊心を保とうと得意げになろうと知ったことではないが、少なくともサバイバルを意識している人間の方が行動の選択の余地を奪われた結果、損をするようなことがあってはならない。頭の良し悪しの問題を言っているわけでもないし、人間としての貴賤を語っているわけでもないが、どのようにふるまうことが安全なのかを弁えたり、少なくとも考えている人間こそ、自ら先んじて有利な行動を選択し実行することが望ましい。僕の歩行論は、そういう選択のためのヒントを集めたり、可能なら更に一般的な原則を提案することが目的である。

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