最終更新日: 2008年11月22日

『壊れる日本人』(柳田邦男/著, 新潮社, 2005)

2005年07月18日 02:15

新聞にこの本の広告が掲載されて、次の日にすぐ買ってから少しずつ読み進めたのですが、全体の印象ではいささか感傷的で大づかみの話が多く、中には針小棒大の感が否めない部分もあります。

また、広告の文言からメディア批評のような文章を思い描いていた僕には、文章のほぼ 2/3 がいわゆる「ケータイ文化」やネット社会とは関係のない「あの懐かしき日本文化と日本社会」の礼賛とノスタルジーといった内容で、柳田邦男という人が、読売新聞的な俗流ナショナリストであったと思い知らされた本でもありました。文章中に何度も「ただ懐古したいだけではない」という弁解が繰り返されているのは、読んでいていささか痛ましい。とは言え、この本の中で柳田氏が描いている、あの懐かしくも美しき日本文化を思わせる一つ一つの事例だとか、あるいは彼が憤っている、現代の日本で起きているさまざまな事件や事故は、それぞれ検討の価値があると思うのです。したがって個々の標本は出来映えが良くても、それをまとめた博物学としてはかなり予断の多い本だと言っていいでしょう。

『壊れる日本人』の中で柳田氏は、終末医療で患者達と熱心に交流している医師を紹介した後で、それに比べ多くの医師は彼らのように患者と向き合うことをしないで、昨今のインフォームド・コンセントの風潮に合わせて、いわばマニュアル的に病名告知をしているだけであると述べています。なぜか。日本がアメリカ化されて、合理性や効率だけを重んじるようになり、「あいまいさ」や個人の裁量の余地を残したりしなくなったから云々ということで、結局は「あの失われた美しき日本人の精神と日本文化を取り戻せ」という論調だけが残ります。そこでどうすればよいのかという話に行きたいところですが、柳田氏の議論は、「そういういいヒトがいっぱいいればいいのにね」という、個人の性格や倫理観に話が収束してしまい、それゆえ彼の唱える目的を本当に達成したいと思えば、彼が良かれと思っている日本人の伝統的な精神(性格や倫理観)、あるいは彼がいまどきの日本人に求めている「コミュニケーション能力」とやらを制度的に強制するしかなくなるという、皮肉な顛末に至るでありましょう。そして、そうした強制の多くがかつての共産主義国家や、あるいは日本国内の左翼とか日教組、果ては市民団体で、「道徳的な葛藤に訴える強制」というロジックを使って実践されてきたことを思うと、更に皮肉な顛末と言わざるをえません。ちなみに、「道徳的な葛藤に訴える強制」というのは、善意という大義名分をもって勝手にできあがった市民団体の、熱心な「信者」によくある行動パターンで、例えば募金に訪れた家庭でアフリカ難民の写真を見せて、募金するか「冷たい人間」として無視するかを迫るといったことです。平たく言えば、「えせ同和」と同じロゴロジーを使っていることに無自覚な、おめでたい連中の理屈だと思えばよいでしょう。柳田氏の議論も、彼が言う日本的な精神と欧米の合理主義とを、他人に対して「やさしいか、それとも冷徹か」という二分法へ導くような投射を含んでいます。文化の対立や世代間の対立を善悪の対立であるかのように描きながら、後で「私はケータイやネットを全否定しているわけではない」と留保したり、寛容に振る舞っているかの但し書きを設けているのですが、読者はそうした申し訳ていどの但し書きへ至るまでに、彼が描いた「優しい日本文化 vs 冷酷な西洋文化」という対比を、いろいろな事例に則して印象づけられていくという次第です。

こういう、「柔らかいイデオロギー」をじわじわと押しつけてくる文章ほど始末が悪いものはありません。あからさまにイデオロギーを唱道しているわけでもないから、たぶん書いている本人には自覚がなく、批評されると「せっかく心温まる事例や善意の人たちを紹介しているのに・・・」という反応しか返ってこない場合も多いわけです。また、このような本に同情的な人たちも、個々の事例から受ける印象に束縛されてしまい、「この本はそういうことを意図しているわけではないのだ」と、動機を擁護するだけに終わりがちです。もちろん、郷土の文化を大切にすることはよいことでしょう。柳田氏が『壊れる日本人』で紹介している、岩手県の気仙地方で使われている方言で翻訳された聖書の話は、僕の母親があの辺り出身(住田町世田米)だったので親近感のもてるものだったし、また方言で聖書を翻訳するという事業そのものにも強く興味を惹かれました。また、その土地土地で使われている風土を表す言葉を、俳句の正統な季語として使おうという「地貌季語」の話も興味深いものだったのですが、それらの話が「ケータイ文化」やネット依存の生活から一歩退く話とどう関係するのかがはっきりしない。寧ろ、「子供にはテレビを見せるな」とか「毎週ネットを使わない曜日を決めよう」という主張よりも、「幼児に英語を教えても、日本語と英語の混乱したフレームワークの中で育つだけだから有害である」といった主張を掲げる方がマシではないかと思えます。

だいたい彼が病気の告知について日本と西洋とを比較して論じているような、欧米ではキリスト教が強く、異教徒かどうかという発想で考えるから、ものごとをはっきり分けたがり、病名もあいまいさのない言い方で告知される、なとどいうのは、トンデモ文化論と言ってよいほど雑な文化比較でしょう。ヨーロッパの医者には、彼が尊ぶ「患者の性格に応じて病名をいろいろな言い方で告知する」といった人間味溢れる(自分で書いていて恥ずかしくなる)コミュニケーション能力がないのでしょうか? 病名告知に限らず、コミュニケーション上の習慣などというものはそれぞれの生活文化の中で培われるものであって、彼の思い描く「あいまいさ」を求めない文化圏で生きている人間なら、日本人であろうとエチオピア人であろうと、はっきり告知される方を望むでしょう。結局、彼の議論は病名告知のやりかたをめぐって、「西洋の合理主義」とかいう妖怪と「日本人の良き精神」とかいう理想とを闘わせるという、シャドウボクシングどころか、どちらも何を言いたいのかはっきりしない作り物同士を闘わせるという展開になってしまっているのではないか。敢えて言えば「紙相撲」といったところでしょう。

加えて、「あいまいさ」を尊ぶにしても、これを実体(なにか-そこに-ある-もの)として論じようとすると、すぐに破綻を来します。なぜなら、ものごとをはっきり区別せずにあいまいな部分を残すと言っても、あいまいな部分がどこからどこまでなのかをはっきり区別することができなければ、要するにその場限りで個人が勝手に判断するか、あるいは全てあいまい(というか gradual)になるだけだからです。前者はさきほど述べたように、医師が(一定の思惑に沿った)道徳教育を強制されかれないし(そうでなければ、柳田氏の理想や提言は、市民運動家が口にする「ワレワレはコレコレしなければならないと思います」という、実効性に乏しい子供のおねだりみたいなものと同レベルでしょう)、後者であれば事実上判断基準などないに等しくなります。

さて『壊れる日本人』は、後半になると、宮崎で起きた小学生の女児による同級生の殺人事件をめぐって、母親はこどもを育てるときに乳を与えながらテレビを見たりネットで買い物をするといった「ながら授乳」をさせてはならないとか、あるいは子供が親とコミュニケーションを取る時間が少なくなると、ネットやテレビに影響を受ける度合いが高くなるので危険であるといった主張が繰り返され、「それゆえネットやテレビやケータイに依存する生活はよくない」という結論が引き出されます。もちろん、柳田氏が指摘しているように、因果関係がはっきりしていないからといって、ネットやテレビの子供に対する影響を過小評価するような理屈には賛同しがたいのです。また、柳田氏の主張は、「ケータイやネットやテレビを家庭から追放しよう」ということではなく、そもそも子供や親がテレビやケータイにそれぞれ向かってしまい、お互いに会話したり食事するといったやりとりがなくなってしまう生活スタイルこそが問題の本質であると述べているので、この点は大いに賛同できるのですが、一冊の書物としてまとめる際の構成が、残したり守りたいもの(日本の各地の方言とか伝統的な文化やものの考え方など)をえんえんと語ってから、唐突に「これらがなくなりつつあるのはネットやケータイ、あるいは欧米型の効率主義や合理主義のせいだ」と、ほぼ論証無しに断言されているため、読んでいる方は面食らってしまうわけです。

このように、紹介されている個々の事例や、それらに対する柳田氏の印象とか論評には同意できることが多くても、全体としてそれとネットやケータイがどう関係あるのかはっきりしない、あるいは結論に向かう論証が説得力を欠いているように思える理由はどこにあるのでしょうか。一つの理由は、この本が連載記事をまとめたものであるという点にあるかもしれません。連載記事は、彼のように数多くの連載を平行して抱えている物書きが書くと、散発的で、先に書いたことの一部を(書いている本人が思い出そうとしているように)後の記事にも繰り返してしまうという弊害をもつことがあります。そのうち、この本の中間あたり(病名告知や方言の話が出てくるあたり)で起きているように、もともと「ケータイやネットに依存する生活スタイルから生じると思われる弊害」について論じている筈が、殆ど主題と関係のない話をえんえんと続けて、その箇所だけで自己完結してしまったりします。

たとえば中間あたりに出てくる、方言のすばらしさを訴えている箇所で、このような「主題と関係のない話題で自己完結してしまう連載記事の弊害」というパターンが見て取れます。そもそも、僕が思うに、方言はケータイやネットによって失われるわけではなく、その大きな原因はテレビにあります。なぜなら、まず柳田氏も指摘しているように、ケータイやネットは私(プライベート)と公(パブリック)の境界を不明確にしてしまうわけですが、その一方で、ケータイやネットにつながっている自分は私(プライベート)の感覚のままでいられるのだから、友達と会話するのに標準語でないとカッコ悪いといったことはないし、ネットをかけずり回るのに他人とのコミュニケーションは必ずしも必要ないので、これらが方言を駆逐する原因になっているとは殆ど思えないからです。しかしテレビを見ていると、自分の地元出身の芸能人や政治家、あるいは大学教授から文化人など、いろいろな人たちが努めて標準語で話そうとしているのを、子供に限らず全ての人が目にします。子供はテレビの出演者に、今も昔も大きな影響を受けます。もし東京の方が大阪に来てみれば、たとえば大阪環状線の車内で、高校生などがいかに下手くそな東京弁を必死に喋ろうとしているか、よくお分かりになるでしょう。彼らは、いまどきの高校生などもっと擦れていると思われるかもしれませんが、実際には必死になって妻夫木聡あるいは浜崎あゆみに近づこうとしています。

では最後に、主題となっている「ノー・ケータイ・デー」などの提言についてはどうでしょうか。実は、ケータイやネットについて提言している部分はほんの一部で、話は再び宮崎で起きた小学生による殺人という話題に戻ってしまい、「ケータイやネットに依存しているとこうなるぞ」と言わんばかりの印象批評で幕を閉じています。また、ケータイやネットの利用に関しては、「仕事で使っている場合は仕方ない」などと、ほぼ子供しか眼中にない提言をしていて、これは文化についてごちゃごちゃ言っていた割りに、実は教育とか子育ての話をしていたのかと思わされます。また、子育ての話としてノー・ケータイ・デーなどを訴えるのはよいとしても、なんだ、月刊『コモ』とかいう雑誌の特集記事をまとめた本の単なる広告と化して、「わたしはこれで 30 kg 痩せました」的な、胡散臭い読後感を羅列するだけの、ノンフィクションライターとは思えない杜撰な文章が垂れ流されていたり、いくら書き散らしの連載記事としても酷すぎるように思いました。

このようなわけで、本の中で紹介されている部分的な話題には強く興味をもったものもありましたが、一つの著作物としては、本人が「急いでまとめた」と書いているように、いささか性急との感が残りました。正直言って、文明批評とか文化評論のレベルで判断すると、「ネットやゲームは危ない」と声高に叫んでいるだけの連中が書いた読み物と大差ありませんね。気仙語の聖書とか、面白い話が幾つかあっただけに、残念です。

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