裁判員制度についての雑感
2008-12-30 23:11 /
さきほど NHK の番組「裁判員制度がはじまる 今夜とことん考えます NHKスペシャル」を観て、よい機会なので少し調べてみました。
まずは Wikipedia の「裁判員制度」を参照すると、2004年5月に成立した「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(平成16年5月28日法律第63号)という法律があり、2009年5月から施行されます。条文は補則まで入れて7章立てとなっていて、以下のような構成です。
- 第一章 総則(第一条-第五条)
- 第二章 裁判員
- 第一節 総則(第六条-第十条)
- 第二節 選任(第十一条-第三十七条)
- 第三節 解任(第三十八条-第四十条)
- 第三章 裁判員の参加する裁判の手続
- 第一節 公判準備及び公判手続(第四十一条・第四十二条)
- 第二節 刑事訴訟規則の適用に関する特例等(第四十三条-第四十九条)
- 第四章 評議(第五十条・第五十一条)
- 第五章 区分審理決定がされた場合の審理及び裁判の特例等(平二〇最裁規五・追加)
- 第一節 審理及び裁判の特例(平二〇最裁規五・追加)
- 第一款 区分審理決定(第五十二条-第五十六条)(平二〇最裁規五・追加)
- 第二款 区分事件審判(第五十七条-第五十九条)(平二〇最裁規五・追加)
- 第三款 併合事件審判(第六十条)(平二〇最裁規五・追加)
- 第二節 選任予定裁判員(平二〇最裁規五・追加)
- 第一款 選任予定裁判員の選定(第六十一条)(平二〇最裁規五・追加)
- 第二款 選任予定裁判員の選定の取消し(第六十二条-第六十五条)(平二〇最裁規五・追加)
- 第六章 裁判員等の保護のための措置(第六十六条・第六十七条)(平二〇最裁規五・旧第五章繰下)
- 第七章 補則(第六十八条・第六十九条)(平二〇最裁規五・旧第六章繰下)
- 附則
裁判員制度では、地方裁判所で行われる刑事裁判から、殺人、傷害致死、強盗致死傷、放火、身代金目的誘拐といった重大犯罪について、無作為に選ばれた国民が審理に参加します。もちろん、ヤクザが起こした事件など、判決内容を不服として本人や家族に後から危険が及ぶと思われる事案は、裁判官のみで審理されるそうな。ここまででわかるのは、まず地方裁判所の刑事裁判の審理に参加するということなので、三審制のうち第一審にだけ参加するということです。したがって、上級審で自分たちが審理に加わった判決が覆される可能性もあり、これまで判例を重視してきた日本の司法がどこまで対応できるかは未知数と言えます。次に、裁判員や親族などに後から危害が及ぶ可能性を排除するとしていますが、これは正直なところわからないですね。だっていまどき逆恨みで殺すなんてことは、ヤクザよりも一般人の方が手軽にできるしやるんじゃないですか。そして裁判員は、裁判官と共に証拠を検討して事実認定を下し量刑を決めます。アメリカの陪審員ですらやっていない量刑までいきなり一般人が決めてしまうわけですから、どういうリスクがあるのか不安に思います。具体的な内容はそれぞれ Wikipedia の解説を見て頂くとして、この制度には番組の中でも数多くの疑問が指摘されていました。もちろん全ての疑問について同意するわけではありません。しかし、僕なりに考えるところを整理したいので、あまり MD で時事ネタは書かないのですが、取り上げてみることにしました。
正直なところ、仕事が忙しいとか煩わしいという理由もあるにせよ、すすんで裁判の審理に参加しようと思っている人がそんなにいるとは思われません。そもそも、この制度の導入にあたっては、法律家と一般人の感覚にズレがあるから参考にするんだとか、一般人が司法に参加できるようにすることが民主的であるなどと言われていますが、それと裁判員制度の導入に何の関係があるのかはっきりしません。だいたい、法律家と一般人の感覚のズレという話は、新聞やテレビを通じて僕らが口々にぶつくさ言ってたり、会社で茶飲み話に興じてるような内容と判決内容がズレているという、言ってみれば非常に些末というかどうでもよいズレでしかありません。なんとなれば、一般人の感覚などと言えば、例えば人を殺しても精神鑑定で精神病院送りか無罪放免になる人がいるのはけしからんとか、あばずれ女子高生のケツを触ったとかで冤罪になってる人は早く釈放して補償金くらい出せばいいのにとか、カレーで町内会を震撼させたババアをなんで早く死刑確定にしないんだとか、わけのわからんカルトの教祖だけじゃなくて、「三位一体のなんとか」をほざいてるかつてのシンパというか自称思想家はどうよとか(西部邁はどう思ってるんだろう。またぞろ、「本来シンパというのは古典語ではしかじか」とか言うんでしょうかね)、そういったていどの不平不満でしょう。よくテレビコマーシャルで、テレビに向かって文句を言ったり野球の采配を評している人が、いきなりテレビに吸い込まれて現場に引っ張り出され、あわてふためくというシーンがありますが、まさに殆どの人にとって裁判員制度はそのようなものだと思われます。数年前から裁判員制度について少しは考える機会のあった僕でも、いざ施行されるとなれば自分の判断に重大な責任と不安を覚えます。
そして、僕らが是正したいと思っていることは、現状を変えようと思うなら、まず刑事法なり刑事訴訟法なりを改正すればよいことであって、現実の個々の裁判に僕らが出て行って、茶飲み話の延長をガナリ立てていれば解決するものではありません。法律の改正なら、何も新しい制度など導入しなくても、政治家に法律を作らせるなり、成立させるような政治家を選挙で選べばよい。つまり、選挙も経ずに制度を作ってもらうなどというのは、実は国民自身が投票行動の重みを自覚していない証拠であって、裁判員制度の成立という事態こそ、民主的なルールをきちんと国民が活用していないという事実の表れだと思います。
では、Firefox では表示が乱れまくっている裁判所のサイトには、この制度の趣旨がどう書かれているのでしょうか。裁判員制度の特設サイトにはメールマガジンを登録する機能があって、これに登録すると署名には「私の視点,私の感覚,私の言葉で参加します。」というキャッチフレーズが書かれています。僕はこのような「市民参加」とか「民主化」は信用できません。なぜなら、なぜ一般人が「私の」視点ではなく公平な視点を意識しようと志して審理に加わってはいけないのかが分からないからです。なんで一般の国民は、つねに自分の生活感覚しかないと思われていて、いわゆる「バカの一つ覚え現場主義」の権化みたいに扱われなければならないのか。どうして一般の国民は、もっと広い見識や高いレベルで法の下の平等を目指すように期待されていないのか。「台所感覚で殺人事件を裁いて下さい」などと国に言われて、他人の今後の人生を左右できる主婦がいると思いますか。
次に、裁判員制度の特設サイトに公開されている、制度の趣旨について説明している文章を見てみると、
Q.裁判員制度はなぜ導入されたのですか。
A.これまでの裁判は,検察官や弁護士,裁判官という法律の専門家が中心となって行われてきました。丁寧で慎重な検討がされ,その結果詳しい判決が書かれることによって高い評価を受けてきたと思っています。しかし,その反面,専門的な正確さを重視する余り審理や判決が国民にとって理解しにくいものであったり,審理に長期間を要する事件が一部にあったりしたため,刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた面もあったと考えられます。
そこで,この度の司法制度改革の中で,国民の司法参加制度の導入が検討され,裁判官と国民から選ばれた裁判員が,それぞれの知識経験を生かしつつ一緒に判断すること(「裁判員と裁判官の協働」と呼びます。)により,より国民の理解しやすい裁判を実現することができるとの考えのもとに裁判員制度が提案されたのです。
とあります。ここで注目したいのは、国民にとって理解しやすいとかしにくいという表現です。つまり、国民に理解しやすい裁判のために導入するというわけですが、ここでの「理解」とは、少なくともこれまでの文脈では「意味が分かること」ではなく、政治家的・役人的な「納得すること」という意味でなくてはなりません。なぜなら、裁判員制度を導入することと、判決文の intelligibility とは関係が全くないからです。言っている内容が通じるという意味での「理解」は、聞いている方の知識や経験にも依存するので、国民に裁判や判決文の意味が通じるように裁判員制度を導入するということであれば、そはまるっきり社会人の体験学習と同じことであって、自己啓発セミナーの合宿と変わりません。そして、そうしたなんちゃってセミナーで経営や営業のなんたるかが分かるわけがないのと同じく、たかだか3日ほど法律の現場に引っ張り出されただけで、判決文の法曹用語が分かるようになるわけでもないし、構成要件論の概略すら語れるようになるわけでもないのです。それに、判決文や裁判のしくみが難しいというのは立法上の理由があってのことなのであって、裁判一つを行うにも刑事訴訟法なり監獄法なりといった各種多様な法律を考慮する必要があり、そしてそれだけ膨大な量の文言で裁判を規程しているのは、国民自身に公正な裁判をサービスして、裁判官や検察官や弁護士の恣意的な運用で正義がねじ曲げられないようにするためだという前提がある以上、バカに分かりやすくするために刑事訴訟法をマンガに描き換えて改正するといったことが馬鹿げているのと同じていどに、分かりやすさというものは危険なものだという認識をこそ国民に啓発していくべきでしょう。
また、それと平行して誤解を招くような語句を改めるようにしてゆかなければなりません。例えば、日弁連のサイトには「法廷用語の日常語化に関するプロジェクトチーム」というのがあるそうですが、「プロジェクトチーム」という語句を “PT” などと略す習慣は一般企業にはありません。また法廷用語集も出されているようですが、これは筋としては国が裁判員制度に関するやらせミーティングを開くていどの予算で有権者に配布できたような気もしますし、国民がわざわざ自腹で買うべきものではないと考えます。
さて、国民に納得してもらうという意味での「理解」を目指すというなら、それは刑事裁判が近寄り難かろうと、判決文の意味が分かりにくかろうと、関係がありません。要するに、国民は文言の難しさなどではなく、判決内容そのものに不服を感じているということなのですから。さきほども述べたように、精神疾患の患者が犯した罪が問われないのはおかしいとか、会社の机の上にケツを突き出してる中学生のフィギュアを置いているような連中は、予備罪として拘留してもよいのではないかとか、そういったことは現行の法律を改正すればよいことです。それに加えて、もし裁判官と国民の認識が乖離していることに危機感を抱くのであれば、なぜ国民の参加だけを新しく強制して、自分たちの忌避条件をもっとゆるめたりしないのかという問題もあります。例えば地方裁判所の判事は、管轄区域の住民投票で判事を辞めさせられるようにするとか、そういうことの方が「民意」をすぐに反映できるでしょう。その民意とやらがまともである保証などありませんが。
NHK の番組を見ていたときにふと思ったことがあって、これは流石にスタジオで発言する人はいなかろうと思っていましたが、どうやら裁判員制度に大手を振って参加したいと発言している人の中には、『12人の怒れる男』というヘンリー・フォンダの古い映画(こういうのは着色版で観るものではありません)でも語られていた “public venger” のような投射系の人や、あるいは端的に言って「裁判官のように偉そうに他人を差配したい」という感覚の人がいるように見受けました。で、一概には言えないかもしれませんが、そういう人に限って声がでかいわけで(笑、自分の「国民感覚」が受け入れられないと、どんな国や共同体であっても「民主的でない」とか「国民不在だ」とかいった、あめ玉をほしがる子供みたいな不平不満を口にします(そもそも、天下り式に決まった制度が「民主的」かどうかなどと論じていること自体がナンセンスなのではありますが)。そして、僕は単にこうした特定の「善良な市民」をどうこうしたいというよりも、やはりこの制度には人選によってブレが大きくなりすぎる危険性があると思うのですね。そのために裁判官も加わって評議し裁定するわけですが、果たしてこんなことをただの多数決で決めてよいのかどうか、非常に大きな疑問を覚えます。
次に法務省のサイトを見てみると、こちらは制度を導入する理由として、
国民のみなさんが裁判に参加することによって、国民のみなさんの視点、感覚が、裁判の内容に反映されることになります。
その結果、裁判が身近になり、国民のみなさんの司法に対する理解と信頼が深まることが期待されています。
そして、国民のみなさんが、自分を取り巻く社会について考えることにつながり、より良い社会への第一歩となることが期待されています。
と謳っています。一つ目の段落については既に述べました。二つ目と三つ目の段落についても、ほぼ同じ点を指摘できます。つまり、国民が裁判制度を体験してみて理解することが目的に入っているわけですが、こんなことは興味を持った人が傍聴でもすればよいことであって、人を裁く真似事に加わるどころか、本当の審理に加わる必要まであるのかということです。この点について、NHK の番組では「Web デザイナー」を自称する女性が「やってみなきゃ変わらない」と、広告代理店のサクラでもあるまいし愚かな発言を繰り返していましたが、やってみて誰かを有罪・死刑に処してから取り替えしがつくんでしょうか。もちろん、僕らは第一審だけの参加なので、上級審で覆る可能性はありますが、誤審のリスクについて、もともと託している裁判官だけでなく国民にも責任を負わせるべきであるなどと、いったい誰が要望しているのでしょうか。

ちなみに、僕は今回は「招集令状」を受け取っていません。