「ジャーナリストの個人的な意見」? 自分のブログで勝手にどうぞ。

2010-07-18 14:19 / hittings

われわれは主観性を100%排除して文章を書くことは不可能だ。われわれはロボットではない。われわれは人間だ。

via 「客観報道」という偽善―ニュースには記者の意見がもっと必要だ.

敢えて上記とは逆の立場を支持したい。近年のジャーナリストは、寧ろ余計なことを書きすぎ、喋りすぎである。ウェブ上のコンテンツの量に不合理な制約がないという特徴は、しばしば「たくさん書く」ために援用されているが、この特徴は「少なく書く」ためにも使えるので、ぜひ活用していただきたいところだ。

上記の引用が述べているように、事の経緯を単純に説明しているようでも、記者の受け止め方や編集の仕方によって何らかの恣意的な偏りが生じる可能性があるという認識は正しいと思う。そして、一定の予想(悪い意味なら思惑)に沿って取材した結果を「報道」するのは、明らかに取材前の段階で記者に一定の方針(悪い意味なら偏向)があることを示しており、それは読む人に開示すべき情報ではないのかという指摘も、おおむね賛同できる。しかし、だからといって「思った事をそのまま書く」などという、いまどき補習塾の「小論文」授業でも言わないようなことを、いい歳をして大見得を切って主張するのは、はっきり言ってかなり恥ずかしいことではないのか。

またアーリントンさん(上記の筆者)は、現行のマスコミに見受けられる上記のような記者の方針(あるいは偏向)を、読者にあらかじめ開示する「プロセス・ジャーナリズム」なるものを擁護しているが、それは記者の姿勢を端的に開示したり、記者本人にも価値を計りかねる情報について、多くの人の意見をもらって参考にするという「いかにもソーシャルな」意味だけをもつのだろうか。そうとは思えない。

プロセス・ジャーナリズムなるものは、上記のようなイデオロギーや解釈を込めた説明を抜いてただの現象だけを記述すれば、単に入稿前の下書きも公表するという行為でしかない。ブログで正式に発表するタイプのジャーナリストであっても同じことであり、”draft” ステータスにしてある記事を、それ以上は推敲せずに「ベータ版」として公開してしまうことなのだ。だが、推敲途中の文章を先んじて(特許の優先権争いでもあるまいし)公開してしまうなどというのは、プロセス・ジャーナリズムというものの(それこそ)プロセスだけを形式的に使えば、スクープ狙いや「釣り堀」として利用されるか、あるいは「プロセスを公開する」と称して途中の原稿料も稼ぐような連中を増やすだけか、もしくは自分の推敲能力さえ信じていない「なんちゃって物書き(間違ったら許してね、てへ。)」を淘汰せずに残してしまうことになるのではないか。

また、プロセス・ジャーナリズムでは、価値の定かでない情報について、多くの人から示唆をもらうといった「ソーシャルな」プロセスを提唱しているが、それは単にジャーナリストが他人のもっている情報や解釈能力にただ乗りするだけの話ではないのか、とも思う。もちろん、外部から加わった解釈や補足情報についても、ジャーナリスト本人が改めて個別に吟味する必要はあるだろうし、他人の間違った解釈や嘘の補足情報に振り回されたジャーナリストは、愚かな記事を入稿してしまうこととなり、結果的に外部の入力を正しくさばけないジャーナリストは淘汰されるのかもしれないが、そもそも、そのような回り道をする必要がどこにあるのだろう。もともとが、手持ちの情報を(第三者の補助がなくても)適切にさばけないジャーナリストが淘汰されるだけでは、なぜいけないのか。プロセス・ジャーナリズムなるものの実態が、文書能力は低いが資料を集めるのだけはうまい無能な連中から、同業者が資料をかすめ取るだけの仕組みになってしまわないという保証はどこにあるのだろう。

それに、取材資料や下書きを公開するなどというのは、ソーシャルだのなんだのと耳障りのよい御託を抜かしていようと、自分が耳目を集める特別な人間だと思い込んでいる傲慢な人間の考え方ではないのかという気がする。通常、自分の発言に影響力があると自覚しており、かつ本当に影響力がある人間は、上場企業の経営者だろうと天皇だろうとローマ法王だろうと内閣総理大臣だろうと、発言や文章の公開は慎重に行うものだ(内閣総理大臣や経営者については例外も多いが<笑)。注目を集めていて、なおかつ平気であることないことを発言できる人間などというものは、ワイルドさが売りのガキんちょアイドルか、あるいは永遠のガキを自称しながらも、印税だけで食っていける「ロックミュージシャン」くらいのものだ。

こう言ってよければ、TechCrunch のような場所で発言しているブロガーやジャーナリストというものは、誰かが自分たちのつぶやきや記事のアーカイブから、ニュートンやハイデガー並みの往復書簡集や全集を出版してくれるとでも思っているのではないか。そして、後から「やはり彼のあのときの発言は、これこれしかじかの意図があったのだ」みたいな古典解釈のなんとか学派とかが生まれてくることを希望しているのだろうか? あるいは、自分たちの発言がやがてカルトを発生させ、解釈をめぐって弟子が三つくらいに分派したりとか。この手の人たちって、『12人の怒れる男』の時代から、メンタリティーが変わってないのかなぁと、逆に感慨深い(「一度でいいから、みんなの注目を浴びたかったんだ!」)。

ということで、いやらしい皮肉はともかく、昨今の「本音」やら「意見」やらをネタ切れの言い訳みたいにわめいているジャーナリストたちは、考え方を変えると、僕らがメディアリテラシーを向上させられた筈の機会を奪ってしまったのではないかと思うのだ。彼らの、分かりやすくて、カンタンに(片仮名で表記すると更にアホっぽく見えるのでよい)是非を分類できる饒舌なフォーマットは、どんどん読み手や聞き手の推測や思考を代行するようになり、かつてニュースステーションが終わった後の銭湯で、愚かな中年たちが久米弘の受け売りを自分で考えたかのように語りあっていたのと同じような、知的コピペ野郎を大量生産するだけにしかならないのではないか。

「いや、他のリソースと読み比べるから相対的に評価するはずだ」という意見もあろう。しかし、ニューズサイトやブログに訪れる一般の閲覧者には、「事の真実が知りたい」とか「よりよい結論を導きたい」などという、インテリぶった動機など殆ど存在しない。扱われている話題に直接の利害関係があればともかく、基本的に世の大多数のネットユーザにとって、そもそも「ジャーナリズムはどうあるべきか」という話題こそが疎遠なのである。運営している彼らには申し訳ないことだが、(TechCrunch をはじめとする)世界中のあらゆる商業ブログやジャーナリストの個人サイトが消失しても、恐らく業界関係者を除けば誰も困らないはずだ。そして、ウェブの凄い(また恐ろしい)ところは、TechCrunch や BoingBoing が突然なくなってしまっても、誰かがすぐに同じことを始められるということなのである。

ちなみに、上記の記事を支持するコメントも合わせて紹介しておく。

メディアが完全に客観的ならば、そこには記者の解説は意見というものがあってはならない。でも実際には意見や解説は必要で、そうなってくると自分(記者) がどの立場から意見してるか、自分がどう考えているのかということを表明するのは、記者としても人間としても誠実な態度だと思うね。(Kay)

それから、

Arringtonの意見に全面的に賛成。客観報道などできないし、するべきでない。そしてそれができるかのように装うべきではない。立場と主観を明確に 表現してこそ、読者はその内容を判断できる。そのように表現しない報道はジャーナリズムの名に値しないと思う。(ayumu)

とある。「実際には意見や解説は必要で」とか(なんで? 記者の個人的な意見を自分が読みたいってだけだからじゃないのかな)、「客観報道などできないし、するべきでもない」(これこそ、なんで?)とか、殆ど理由もなく結論が決まっているようなので、「はぁ、そうっすか」としか論評のしようもないが(笑)、これらのような意見もある。

少なくともネット上では、上記のような意見が大勢を占めるのかもしれないが、同じくネットで大勢を占めている「大マスコミ vs. ブロガー」みたいな対立を煽っている人々の思い描いているコースに、こうした議論が乗ってくるかどうかは分からない。なぜなら、旧来のマスコミ vs. ブロガーという対立に比べて、上記の記事について言えば、「嫌なら新聞社やテレビ局を辞めて自分でブログを公開すれば?」で終わってしまうような気もするからだ。ということで、彼ら「新しいジャーナリスト<笑」の主張が、旧来のマスコミのパブリシティにタダ乗りしながら自分の意見を公開したいというだけの人間に利用されないよう、彼ら自身がなんらかの(場合によっては従来の編集ポリシーを遥かに上回る厳格さが必要かもしれない)ポリシーを立てておかなくてはならないだろう。さもなければ、アーリントンさんの言うプロセス・ジャーナリズムなるものは、彼らジャーナリストの記事を掲載しているサイト運営企業に責任が問われない一方、記者の釣りタイトルでビジターを引っ張り上げられるといった、いいとこ取りに終わってしまうかもしれない。マスコミが「総・東スポ化」していてはどうしようもないだろう。

この意見についても、「もっとオープンにしよう!」と言いはじめる、少年野球漫画の主人公みたいな笑顔で語る、周回遅れの民青の学生みたいな薄気味悪い連中が出てくるに違いない。そうして、どんな思惑があろうと記者の個人的な意見同士を競争させて、どんどん淘汰すればよいと言うだろう。

だが、そんなことを言っている本人たちは自覚していないのだろうが、つまるところそれは、自分以外の人間が効率的に最適化され配置されて自分にサービスを提供してくれることを期待するということでしかない。こうした、或る種の「セカイ系」というか(ただの自意識過剰なり誇大妄想なり、なんらかの精神疾患だと思うが)、あるいは或る種の「人間原理」というか(これも新しいタイプの論理的なママゴトセットでしかないと思うが)、そんな小話に興じている連中の相手をしている余裕が、本当にいまのマスメディアにあるのだろうか。もし、このような話(企業経営や産業というスケールで見ると、こんなものは「戦術」級のトピックにすぎない)をわざわざ検討している新聞社やテレビ局があるとすれば、残念なことだと思う。そのていどの視野しか持っていない新聞社やテレビ局なら、潰れてしまってもよいとは思う(笑)。

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KAWAMOTO Takayuki

Mr. KAWAMOTO Takayuki
also known as philsci
(birth day: Sep 20 1968)
live in Osaka city, Osaka, Japan.

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