Happiness and IT: The hidden dangers of working in IT
2010-03-22 02:24 /
冒頭で紹介する記事のような話が、国内外を問わず多くの場所で語られているのは、どういうわけだろうか。少しずつ突いて来た話題ではあるけれど、そろそろブッた切っておくのもよいと思った。
Working in IT has a lot of up sides, there is always new and interesting challenges that can be pretty fun to solve. Finishing a product is always exciting. Getting into a solid state of productivity is also a lot of fun, getting that rush of flow going and losing yourself in it.
But there are a number of negative aspects that I don’t think many people are fully aware of. Sure most people know one or two but probably don’t realize they may be suffering from the side effects of the industry that they aren’t aware of.
よくある burn-out した人の体験談であり、目新しい項目は特にない。精神的に飽和してしまう、健康を害する、社会性が奪われる、プライベートな時間も奪われる、ストレスに押しつぶされるといった項目は、これまでに数々の人たちが述べてきたことだ。
だがこれはこれで、いきさつを考慮すれば仕方がない面もあると言える。
なぜなら、ごくふつうの人の仕事であるソフトウェア開発やビジュアルデザインあるいはディレクションを、いっときは何か特別な才能を必要とする「技」や「ひらめきの成果」であるかのように語る人々が、この業界にはたくさんいたからだ。いまでもたくさんいるが。しかし、ごくふつうの人々に mixi を開発せよとか、エコトノハを作れと言ってみても、どうでもよい後知恵が山のように詰まった書籍や雑誌記事を見ながら作れるものなら幾らでもできようが、ごくふつうの人々の中には、金だけは腐るほど使えるオッサンどもをカンヌへ連れて行ったり、IT ベンチャーの経営者を東京証券市場に連れて行ける人間など数えるほどしかいまい(もちろん、開発者やデザイナーとして、こんなものが唯一の「成功」だと言っているわけではない)。早い話、ごくふつうの人々に(たとえば)代理店案件と同じ工数や品質で仕事することを求めるのは、端的に言って異常なのである。
なぜ「異常」なのか。理由の一つはこうだ。ごくふつうの職業としてプログラマやデザイナーやディレクターを志望してきた人々に、一定の年数は修行として精勤を求めるのはよいだろう。しかし、その後に何が待っているのか。電算写植業界やワープロ入力業界は消えてなくなったし、CAD や動画編集業界もどんどん海外との競争に負けて行き、どれほど技術を磨いて、鬱病の手前まで精勤したとしても、40代以上の技術者・デザイナーたちに金銭的な点での見返りは全くなかったのである。単に 20 年ほど、ローソンのバイト並みの年収で「生存し続けた」だけだ。
かような条件に不満があれば、転職すればよいと諭す人々もいるが、それは端的に言って無責任としか言いようがない。毎日「サッポロ一番」しか口にせず、帰宅してもせいぜい MMORPG しかやることがない人々を含めて、ごくふつうの職業として働いてきた人々を労働市場に放り出して、いきなり転職しろと言われても大多数は困難であろう。池田信夫氏が唱導するような高い流動性が日本の労働市場に持ち込まれると、その効果がマクロレベルで現れるまでのあいだに(「良い結果として現れる」という保証があってのことだが)、圧倒的多数の「ふつうの人々」は食べていく方法がないのである。もちろん、昨今のデザイナーやプログラマの待遇は中小零細規模だと 30 歳以下でせいぜい手取りが 25~30 万であり、貯金などできる収入ではない。中小零細企業は、もちろん退職金やボーナスなどなくて当たり前だし、残業してもタクシー代を清算できる方が珍しく、私物の携帯を代理店との連絡に使っていても「明細を分割できない」という理由で料金の精算は受け付けてもらえない。ディレクターの事例だと、手取りが 30 万円でも自腹のタクシー代と携帯の料金が 10 万円に達してしまい、清算もしてもらえない場合だってあるのだ。僕も2年ほど前に自腹のタクシー代と携帯料金の合計で、月給から8万ほど即座に無くなったことがある。
冒頭で紹介したような、ごくふつうの人の生活や精神を破綻させかねない「ものづくり経営」を異常としか言いようがない一つめの理由は、そのように過酷な精勤を求めても、現代日本の企業にはそれに報いる方法が金銭的に(所詮、企業が従業員に報いる方法は、会社に卓球台を据え付けようと温泉に連れて行こうと、あるいは正常に失業保険を払おうと(笑)、金銭でしか計れないのだ)存在しないと誰でも既に知っているからである。そしてもう一つの理由は、かように過酷な業務を求めて到達すべきとされているレベルが、ごくふつうの人に要求できるレベルなのかどうか、そもそも疑わしいからだ。
僕はよく、
プログラミングやデザインやディレクションの業務は、ごくふつうの人にもこなせる事でなければならず、彼らはクリエーティブだのハックだの豪腕営業力といった美辞麗句、あるいは業界雑誌や業界ゴロが叫んでいるだけの無内容な御託など、業務において追求する必要は微塵もない。
といった趣旨のことをここで書いてきている。プロの仕事としてのウェブ制作・構築に必要なのは、もちろんコーディングやプログラミングといった実務の知識などあたりまえのことだが、クライアントコントロールを含む最低限のコミュニケーション能力や、相手も含めた我々が「企業」であることを常識的なレベルで理解するためのファイナンスや管理会計の知識、そして情報設計やアルゴリズムといった基礎的な知識が求められてしかるべきだ。結局、こうした素養を欠いている連中こそが、わけのわからない御託を雑誌やブログに書いて、自分たちが一般人とは全く次元の違うステージにいるかの自己暗示と、自己イメージの大宣伝を繰り返しているのだ。なぜこういうことを、言っては申し訳ないが、流行の洋服同然に扱われ投げ捨てられた後は、適当な専門学校の講師になるか、凡庸なフリーランサーにしかなっていないような人々に限って声高に口にするのか。僕の周りにいる、ごく普通のフリーランサーや専門学校の講師は、デザイン雑誌や自称メディアサイトにアホほど書かれている、そんな言葉を気軽に学生に向けたりはしない。
理由を推察すると、おそらくは、あとからどんどんやってくる人々に素養や知識の点で簡単に追い越されても「追い越しようがない」ハードルを最後に残しておいて、自分たちの既得権を守りたいからだ。しかも、後からやってくる若手の技術者やデザイナーがハードルを越えたかどうかは、この連中こそが判定するのである。あるいは、この連中がどこぞの専門学校の「教授w」とか、どこぞの茶飲み仲間で「なんたら協会」をこしらえて、後進の人々がどのていど自分たちよりも劣っているかを判定するわけなのだ。
しかし、判定すると言っても、彼らがやっていることは単に本や雑誌やブログに自分たちの勝手な虚像として「クリエーター」や「エンジニア」をこしらえて後進の人々を評しているだけであり、そのハードルを誰がクリアしたとか、具体的に自分たちの会社で何人を採用したかという成果で公に示したりはしない(入社テストのことを言っているのではない)。そして、暇つぶしに業界雑誌へ登場しては、「これからのデザイナー諸君には、これこれしかじかを頑張ってほしい」などと、自分が達成したこともなく正確に説明すらできないハードルを作り上げる。しかしそれは、要するに「自分はあっち側の人間である」と言っているだけであり、殆ど宗教団体の上級メンバーが口にするようなたわごとと同じである(こうした戯言を繰り返している人間の殆どが、いわゆる広告代理店案件にドップリ浸かっているのは偶然ではない)。
なんの歴史的な重みもない IT 企業で 10 年ほどお絵かきや算数あるいはぼったくりトーク同然の仕事しかしていない 30, 40 代のたかがサラリーマン風情に、これほど卑怯なハードルを設けられて、若い人々は悔しくないだろうか。○報堂や○通の案件はクリエーティブ力が試されるとか、クリティカルな要件を伴うサイトを構築するには何らかの閃きやものづくり精神が必要だ・・・こういった薄汚れた感性をなんらかの「才能」だと思い込んでいるクズのような連中など、いま専門学校や大学に通っている後進の人々は試しに徹底的に無視してみてはどうか。
関連して、以下の文章を見てみる。
Writing software is most similar to writing fiction novels. Writing novels is also an act of creation in an unconstrained and ethereal medium with few well-established construction rules. We know good writing when we see it, but it is hard to teach.
ソフトウェアを開発することは、フィクションの小説を書くことにいちばんよく似ている。小説を書くということは、制約のない夢のような場所で殆ど決まりきったルールもなく行われる、創造という営みの一つだ。我々は、よい小説を読めばよいと分かるが、どうやってよい小説を書けるのかは、簡単に教えられるものではない。
Terence Parr, “Why writing software is not like engineering“
ここで Parr 氏が言わんとすることは「人間の言葉」としては理解できるが、外野からソフトウェア開発の理論や手法を冷やかしているならともかく、ソフトウェア開発手法を大学で教えたり企業で研究している人間としてこのような主張を公言するのは、殆ど学問や職能の放棄と言ってよい。クライアントは、プログラマや SE の応援するチーム(カリフォルニア 40ers でも阪神でも何でもよいが)の勝ち負けに応じて、動いたり動かなかったりするようなシステムを開発するという博打に何億もつぎ込むわけにはいかないし、一握りの「才能あるひとびと」だけが理解したり上手に運用できるような、北斗神拳さながらの秘儀(クリエーティビティや、ハック、あるいはものづくり精神)を伝授してもらいにハーバードや MIT に入学するわけではない。加えて、プログラマやデザイナーという職種の人々は、テレビ番組に出演するたびに「直木賞作家の」と紹介してもらうよう、テレビ局に要請して回るほど卑しい人間でもないのである(笑)。
最後になるが、論旨全体を通して僕が一種の皮肉を書いているのではないかと思う人がいるかもしれない。つまり、誰もが過酷な条件を要求されるクリエイターやプログラマになるわけではない、なぜなら彼らは「ごくふつうの人々」つまり無能な凡人だからだ・・・といった通低音があるのではないかというわけだ。しかし、今回に限って言えばそれは正しくない。「ごくふつうの人々」には字義通りの意味しかなく、ふつうであるということ自体を嘲笑したり蔑んでいるわけではない。彼らに妄想とも言うべき「クリエイター」の虚像を押し付けているという非難は、彼らをそういうレベルに到達すべくもないと、或る意味では言っているのかもしれないが、そうだとしても、それはウェブ制作プロダクションで仕事をすることの必要条件でもなければ唯一の目的でもないはずだ。僕は正直なところ、仕事を自分の生き甲斐にするつもりなどさらさらないし、ウェブアプリケーションの開発や情報セキュリティ実務やページデザインの他に、自分が為すべき人生の目標が幾つもある。そして、僕の本当のキャリアはウェブサイトの制作・構築ではまったくない。他の仕事できちんと食っていけたら、別にウェブ制作の業界など明日にでも出て行ってかまわないのだ。そして、このようなスタイルこそ今後の労働市場で求められるべきではないのか。
