ジャンクフード・コンテンツ? 元からクズに囲まれてるのに?

2009-12-16 03:01 / scribbles

ふーん。でも、マイクルなんだか楽しそうじゃん。マクドナルドで毎日5回も食事できるなんて!

読者へのアドバイスは「近々マクドナルドを毎日5回食う覚悟をした方がいい」というものだ。メディアに対するアドバイスとなるともっと微妙なものになる。いちばん破壊的なイノベーションを思いついたものだけが生き残るだろう。あるいはコンテンツを作ることで金儲けをするのを諦めるべきかもしれない。やむにやまれず書きたいことがあるから書くのであれば金が儲からなくても書けばよい。しかし書いたものは片っ端からリンクバックもなしに剽窃され、検索エンジンにも無視されるということになるかもしれない。昼の勤めを終えた後で夜に趣味で書くことになるかもしれない。しかしそれが現実なのだ。

それが良いか悪いか、公平か不公平かを論じても仕方がない。とにかくそういう方向に動いているのだ。旧秩序の破壊者自身が破壊されようとしている。起きている事態を無いものにしようとしても無駄だ。手作りのコンテンツは死んだ。ジャンクフード・コンテンツの時代が始まろうとしている。

via 手作りコンテンツの終焉―否応なくジャンクフード・コンテンツの時代が来る.

というわけで暇つぶしに釣られてみるわけだが、もちろん俺をはじめとする好き勝手でサイトを運営している人々にしてみれば、ネット上のコンテンツなんてものは自分たちがやっていることの「ついで」であって、それこそ暇つぶしに書いているだけのことだ。別にこれで金を稼ごうとは思っていないし、多くの正常な人間にとってのキャリアというものは、ネットでの露出などクソの役にも立たない。実のところ、「イノベーションの一翼をになうニューメディアの人間」とか言っている北半球の暇人のうち、ごく一部の処世術に長けた人間だけが恩恵を受けるのだ。しかしそもそも、多くの人は「恩恵を受け」たいなどというスケベ根性でネットのコンテンツを公開してはいないだろう。

誰もが、マーケティング屋やセミナー屋のカモみたいなメンタリティでブログを運営していると思ったら大間違いだ。

昨今、ネット上の狼少年達は、「リソース」が何でもかんでもオンラインにあるという下らない前提のもとに、その質や量を論じるのが定番となっているが、そもそもインターネットの技術ですら多くのリソースは大学やシンクタンクの実験室あるいは学生や研究者たちの会話にも含まれている。そろそろ、ただの通信サービスの集まりを神格化するナイーブな感覚は捨てたらどうか。いったい誰こそがアニミズム時代のヒトなのか、わかりゃしない。

さてでは、別に新聞社や雑誌出版社や広告代理店など潰れようとどうだって構わないが、せっかくウェブでコンテンツを公開させてもらっているのだし、単純な考察を進めてみよう。

まず、「よいコンテンツ」(これが何を意味するかはひとまず保留とする)を生み出すためには、文章や図表の分量に色々な差はあれ、一定の時間を要する。これは自明のことだ。つまらないコンテンツですら、公開するには最低でも 140 文字を入力する時間を要するのだし。

冗談はともかく、次によいコンテンツを生み出すためには、一定の時間というだけではなく、それなりの時間がかかるということも認めてよいだろう。我々のような一般人から、お名前を書き下すことすら畏れ多くて憚られるアルファブロガー様たちに至るまで、世の多くのバカどもはモニターの前に貼り付いて集合知の醸成に貢献してるだの何だのといった暇つぶしに精を出す。しかし、それなりによいものであればあるほど、やはりそれなりに時間をかけているに違いない。書評ブログで食べている人たちは、どれほどの速読家であれ、サヴァン症候群でもない限りは最初のページから奥付を目にするまでの一定時間を要するだろう。我々一般人であれば、かなり身近な分野のものであっても、新書なら読み通すのに数時間はかかる。

そして、読んだことをまとめたり、どのように評したらよいかを考えたり、あるいは端的に言って Jugem や Livedoor ブログへログインして記事を作成するのにも、時間はかかる。俺は昔からオン書きしかしないので、ここへ公開する文書は “hittings” カテゴリーの文章ですら、たいていはいったん下書き状態としている。その後、推敲したりそのまま公開したり色々だが、”hittings” 以外のカテゴリーで公開している文章は、最低でも数回は推敲して出している。平均すると、公開するまでに数週間かかっている。もちろん、推敲した挙げ句に没としてローカルのテキストファイルに落としてしまった記事も山のようにある。「山のように」という言い方が不正確なら、数百と言えばいいだろうか。

ここまで説明すればお分かりのように、よいコンテンツを生み出すには時間がかかる。ブログなどの記事を書くのに時間がかからなくても、既に時間をかけて作った編み物や料理の記事であれば、それらネタを生み出すのに時間がかかっているのだ。したがって、経緯はどうであれ一般の人間にブログ記事など量産できるわけがないのである。

つまり良し悪しはともあれ、コンテンツを毎日のように量産しているのは、そうしていられる人たちだけであり、簡単に言えばアフィリエイトや広告あるいは提灯記事で食ってる人々だとか、暇な主婦や学生(もちろん、「暇な」という形容をわざわざしたのは、主婦=暇人とか学生=暇人と言いたいからではなく、暇じゃない主婦や学生もたくさんいるからだ)、それからブロガーと呼ばれる人たちだけである。しかし、たまにそれ以外の人々も時間をかけてつくったコンテンツを世界規模で一斉に公開するので、その総体をして我々は「いろんな人が興味深いコンテンツを公開していることよ」と、古典の授業で万葉集を読み下しているときみたいな感想をもつのである。

マイクルは、手作りコンテンツが消えると言う。Wikipedia からの転載でレポートを提出する学生みたいに、世界中で他人のコンテンツを剽窃しクリエイターを騙る人々が出現し、やがてわれわれはコンテンツを公開する意欲を失うであろうとな。哀れ、コピペ集合知。

しかし、そんなのは三つの意味で杞憂だと言って良い。

第一に、ネット上のリソースは、Twitter で世界が変わるとかほざいている三文文士たちがまくし立てるほど実社会の知恵や情報と比較して質的に優れたものでもなく、そして、実は量も大したことはないアメリカ人は一年間に一人当たり何バイトの情報を消費したと言うが、その大半は 1990 年代後半以降の限られた時代の情報でしかないのである。また、既に指摘されていることだが、我々は昔から大量の情報に囲まれているのだ。もちろんお気づきのように、ここで言う「情報」とは “Facebook Password Reset Confirmation! Your Support.” だとか、「三井住友銀行からカードローンのご案内/ホントに知ってる!? 新型インフルエンザ」だとか、圧倒的な割合でその手の文言なのだ。

まじめに取り組むべき読み物だとか、業務や相手とのやりとりにおいて大切な通信内容は、読み書きするのに時間がかかるため、時間あたりの消費量が少ない。消費するだけでなく相手のことを理解しようとしたり考えたり他の事情を考慮したり、色々と気をかけるからだ。中高生が携帯で山のようにメールを打ち合っている相手は、よく言われるように本当の友達ではない。それと同じで、いまだに信頼しうるフィルタリングがないという一点だけをとってみても、上記のような情報の消費量は、どれほどのクズ情報に囲まれているかを示しているだけにすぎない。いまどき「手作りだからすなわち良い」などと厚顔にも言えるのは、昔の草の根サヨクとシンパの大学教授だけであろう。

第二に、冒頭でも述べたが、一般の正常な人間はウェブのコンテンツを公開するために生きているわけではないということだ。逆に言えば、ブログで公開できなくなったくらいでやめてしまうような趣味であれば、さっさとやめてしまえばいいのであって、全く本質と関係のない「ウェブでの公開」しかインセンティブがない実生活上の行動など、しょせんは誰かに知られて誉められたいという虚栄心の為せるワザでしかないだろう。そんなものは、もともとやらなくてもよかった事なのだ。

また、ブログの記事や Wiki のページを書くしか能がない人間などという者が世の中にいるとしての話だが、そういう人々は別にウェブライティングやユーザビリティの専門家でもない限り、ネットワーク技術がなくても学問やマスコミで評価される筈の人々であろう。もしそうでないなら、ウェブページのプレゼンテーションだけ、人を惑わす何か問題があると見做してもよいはずであろう。ウェブでのみ「ウェブ上に公開している」という理由でもって評価される技術者や研究者など存在しないのであって、そんなことは技術者あるいは研究者としてまともな訓練を受けている人間にとっては当たり前のことなのだ。あるいは一例として挙げると、本人たちはブログで自分の数学の素養について特に記事を書かないとは思うが、およそ基礎的な数学の素養もない人間がプログラマとして評価されていることなど聞いた試しがない。ウェブでコードを公開しているというだけで評価されるプログラマなど、最初からいないのである。

そして第三に、手作りコンテンツなるものは、やはりそれぞれの人たちが自発的につくるものなので、他人が剽窃したからもう公開するのは止めようと思ったにせよ、それを「止めてはいけない、われわれの集合知やウェブ 3.0 の野望が・・・」などと(笑)、止める権利は誰にもないということだ。したがって、マイクルが述べているように、われわれはさようなコンテンツがなくなってしまう(これは俺も悲しいかもしれない)ということも視野に入れて、今をときめく「ニューメディア時代を生きるユーザ」でいなくてはならない。

われわれは、この環境では最初からユーザである。ちょっとセンチメンタルな表現を許していただくと、肉親や友人、あるいはいまコタツで寝ている彼女と人生を生きるのに、何かの通信サービスのユーザである必要はないだろう。他方、インターネットを介して何事かを利用し、こちらが何かを利用してもらうには、通信回線のユーザでなくてはならない。それはつまり、われわれが任意に「ユーザであったりなかったりを選べる」ということであって、マイクルが危惧しているような事態になれば「好き勝手に止められる」ということこそ、我々がネットに求めている特性の一つだったのではないかということだ。

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KAWAMOTO Takayuki

Mr. KAWAMOTO Takayuki
also known as philsci
(birth day: Sep 20 1968)
live in Osaka city, Osaka, Japan.

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