『パーク・ライフ』(吉田修一/著,文藝春秋(文春文庫), 2004)
2005年05月09日 21:56
いや、なにかある筈だと思ってあれこれ書いてきたけど、どーってことない小説かも。
入浴剤の企画・営業をしている主人公は、外回りの途中で日比谷公園によく出入りする。或る日、電車内でたまたま見かけた臓器移植ネットワークの広告について「なんかぞっとしませんか?」と感想をもらした相手が一緒にいた筈の同僚だと思ったら見ず知らずの女性であった。その女性(「スタバ女」)と日比谷公園で再会しやがて何度か会っては言葉を交わすようになる。あらすじは、この主人公の生活と、スタバ女とのやりとりを中心に、公園で思い描く記憶のエピソードを絡めて淡々と進んでゆく。背表紙にあった村上龍の「特に何が始まるわけでもない」という論評になるほどと思ったお話です。
ただ、表現が巧いという論評をウェブ上でよくみかけますが、例えば「スタバ女」が主人公に言った、
なんにも隠してることなんてないわよ。逆に、自分には隠すものもないってことを、必死になって隠してるんじゃないのかな
という箇所に巧さを感じるといった論評には、いささか閉口しています。これって、とんねるずの「或る意味逆に~」のようなギャグで既に 80 年代には茶化されていた、似非文学青年がよく使う稚拙な言い回しだという印象があって、おいおいと思ってしまう。吉田さんは、このスタバ女にわざとこういう稚拙な表現を使わせたのだというのが僕の読解です。吉田さんが本気でこれを表現として「深い」とか思って書いたなら、もうこの人の小説は読まなくても結構(笑。
また、この作品は主人公自身の生活や彼の周りで起きる事柄を淡々と描いてはいるのですが、そこに「現代人特有の生活感」とか「都会のリアリティ」しか感じていない人もいるというのは、やや気色悪いとも思いました。だって、ここに出てくる「スタバ女」って、もしかすると秋田から上京してきて都会の生活に疲れたから田舎に帰りますみたいな普通の OL でしょ。なにか大切なことに気づいたかのように描かれてもいますが、実際のところはどーってことない田舎モンの行動パターンとも読める。主人公にしても、東京の地名をこれでもかと出して、いかにも「東京暮らしに慣れました」的な雰囲気を出そうとしているけれど、結局は主人公もかなり疲れた地方出身者いうことがありありと分かります。ポスペみたいなサービスを使って自分の分身をネットワーク上で旅行させたり、思い出すことと言えば鍾乳洞で感じたエピソードだとか実家の友人のことだったり。結局、基本的に、この小説が「地方出身者の東京暮らし」の話であることに気づいていない。「おしゃれだけど、ちょっぴり寂しい都会の生活」みたいなレベルで切ってしまっていて、そこにいるのが主人公であれスタバ女であれ「ここで生活していくしかないのかなぁ」というぼんやりした不安を抱えた人たちであるという視点が、たいがいの書評には抜けているような気がしました。
で、ふたつめに感じるのは、東京暮らしのリアリティーがよく描かれているのはよいとして(どのみちそこで住んでいる人以外は「リアリティーを感じる」だけで、本当に日比谷公園がそうなのかどうか知らない人が大半でしょう)、「で?」という話の先に論評が続いていかないのは何故だろうという疑問です。確かに芸術としての小説は、リアリティーある作品を書いて「どうですか?」と僕らの前に出せたらそれで十分でしょう。そこから先に小説がなにかを語り出せば、都市問題を論じる説教じみていて薄っぺらな小説になるか、あるいは「こことは違うどこかへ」みたいな新興宗教まっつぁおのイカれ小説になりかねません。そこは、スタンスが違うので語る必要などないでしょう。しかし、読み手は「ああ、東京の生活ってこんなんなのか」とか、「俺も会社の帰りに市ヶ谷のフィットネスクラブに通いたいな」とか、「日比谷公園でスタバ女に会いたい」とか、そういったところで止まっていても仕方ないのではないか? ウェブ上の書評でも、この作品について「雰囲気を味わうものである」とか言い切ってる人は多いけれども、僕の考えではそのレベルで言い切ってる読者の方が何か病んでるように見える。
では、いまの東京の生活のリアリティを淡々と綴っているという表面的な字面の背後に、どういう意図が読み取れるのでしょうか。まず、一部のブログで指摘されているように、主人公がときにふれて人体になんらかの執着をもっているという点に着目できそうです。臓器移植ネットワークの広告にまつわるエピソードに始まって、ダ・ヴィンチの『人体解剖図』や、自宅付近の店で売られている人体模型、それにフィットネス・クラブで見知らぬ男と水泳で張り合っている話とか、近くのホカ弁で買い物をしている学生の身体つきや、健康広場で体力年齢を気にする人との会話など、作品のあちらこちらに散見されます。このことだけを拾い上げてみると、主人公がいかに疲労しているかがうかがえるように思います。
そもそも、この話のほとんどが日比谷公園や駒沢公園付近を中心に描かれているという点を思い出すと、やはり話のメインテーマは「現代の都会に暮らす人々の行き場のなさ」というところに行くのでしょう。しかしそれだけなら、行き着く先はきわめて凡庸な「都落ち小説」であるか、あるいは「都会の哀愁にまみれるナルシストの話」でしかありません。そこで、最後のシーンを振り返ってみましょう。
[...]「ふん」と鼻から息を吐くような声で、彼女がとつぜん強く肯き、すっと顔を上げてぼくを見つめると、「よし。・・・・・・私ね、決めた」と呟いた。
[...]
[...]消えた彼女に背を向けて、ひとり公園のほうへ歩きだすと、「よし。・・・・・・私ね。決めた」と呟いた彼女の言葉が蘇り、まるで自分まで、今、何かを決めたような気がした。
主人公は、彼女が何を決めたのかまるで分からない。でも、彼女が決意した状況を物語として追わされているたいていの読者は、スタバ女が写真展で観た郷里の景色に感化されて、郷里へ戻る決意をしたかのように読めてしまう。しかし、それはあまりにも単純でどうしようもなく凡庸な結末です。実際には、スタバ女がどういう決心をしたのかはどうでもよいことなのでしょう。わざとそうした凡庸さを狙っているかのように思えますが、ここで主人公の方に目を向けてみると、彼はスタバ女と別れてからもすぐさま公園に向かって歩こうとしています。つまり彼女との別れを予感して二度と会えないような気がしたにもかかわらず、自分はいつもの公園に向かって足を進めている。スタバ女を追いかけていって「さっきの『決めた』って、どういう意味なんですか?」とは質問できないような、人を遠ざける何かがスタバ女にはあるのでしょう。また主人公にしても、なにか彼女に興味がありそうな気はするし、別れ際の名残も多少はあるのでしょうが、結局はいつもの公園に足を向けるしかない。主人公とスタバ女のそうした距離感こそ、その女性が最後まで「スタバ女」と呼ばれ続けて、名前なしでもこの作品に存在していられた理由なのかもしれません。つまり「スタバ女」は、彼女が「それがぜんぶ私に見えるの」と言うほど、他のスタバ女たちから抜け出てきた(つまり彼女たちとは距離を置くようになって、何かに気づいた)人ではないのであります。
このように、とりたててどうといったこともない人物の生活が描かれているだけに思える小説ですが、この作品についてしばしば評されている「都会の生活感」とか「孤独な現代人」といった紋切り型のレッテルにはどうも違和感を覚えてしまいます。例えば、さきほど指摘したように、肉体に対する執着とか、あるいは男性のシャツをやおらたたんでみようと思ったり、この主人公をゲイとして読むことも不可能ではないと思うのです。そういった、なにかどこかに隠されているような、そうでないような作品でした。
