「読み越したい」という感じ

2009-11-07 01:52 / hittings

なんだか作品に求めたいものがあって、いまは中国の歴史小説とかアメリカ文学とかを書店で眺めている。中国の歴史小説には、大量の人々を支配するという覇業の難しさを「読み越したい」と願い、アメリカ文学には、茫漠たる景色や、幹線道路を延々と進んだ先にひっそり住んでいる人々の思いを「読み越したい」と願っている。一見すると正反対の気持ちになっているが、どちらも人の世の儚さというか、力強さを文章の先に感じたいと思う。「読み越したい」という言い方をしたのは、そのせいだ。

ただの個人的な好き嫌いでしかないのかもしれないが、先に書いた記事で、小説家が「史実」という明確な終着点を引き合いに文章を書くのは傲慢だと僕が言ったのも、歴史にせよ風土にせよ、上記のように「読み越せる」作品を読みたいと思うからなのだろう。もちろん、データや客観的な考察をどれほど書いても、読み手の想像に残され託される部分はある。しかし、僕にはそういう文章を「読み越す」インセンティブがない。データとして、あるいは考察として正しいかそうでないかの区別しかないのである。単に一人の小説家が既存の学術の成果から読み越したあれこれを語ってもらっても、それは「史実」ではない。

それから、当時の人々が思ったことや感じたことを読み越せるような媒体は、「作品」とは言っても文学作品に限られる話ではない。もちろん漫画やアニメーションやイラストや絵画や詩あるいは彫刻でもよいだろう。日ごろからヲタクをバカにする発言をしてはいるが、正直な話、漫画が小説に比べてどうだなどと言う時代は既に終わったと思っている。よい小説は凡俗の漫画よりも優れているし(「何が優れている」のかは難しい)、よい漫画は凡俗の小説よりも優れている。当然のことだ。

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KAWAMOTO Takayuki

Mr. KAWAMOTO Takayuki
also known as philsci
(birth day: Sep 20 1968)
live in Osaka city, Osaka, Japan.

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