働くところと働くこと

2009-10-22 02:44 / scribbles

これまでに何度か書いてきた話を、池田信夫氏の『希望を捨てる勇気』に照らしながら、あらためて振り返ってみたい。

帰宅すると、『希望を捨てる勇気』(池田信夫/著)を拾い読みしている。池田氏についてはあれこれ否定的な短評もしてきたが、まとまった著作としては読む価値があろうと考えたからだ。そこで、当サイトでも言及した話題に限って、この著作を横目に映しながら再び取り上げてみよう。WordPress をアップデートするついでだ(笑)。

当サイトでは、何度か「会社は株主のものだ」と書いた覚えがある。これは、そもそも株主やベンチャーキャピタルが経営者や従業員よりも「優れいてる」からでもなければ、株主が企業を細部に至るまで支配する実効権をもっているからでもない。どちらも、そんなことはない。そうではなく、僕は企業の最高意志決定機関が株主総会であるという、多くの場合は建前でしかなくても、当たり前のことを述べているだけの話である。このていどの話は、ITパスポート試験にすら出てくる会社法の基礎と言って良い。

但し、取締役会設置会社では所有と経営を分離することが念頭に置かれており、株主総会つまりは株主に企業の執行権はないとされているから、例えばベンチャーキャピタルでうちを担当している方が僕の明日の業務内容を指示することはないし、できないと言って良い。せいぜい彼らができるのは、当社の最高執行責任者に業務を依頼したり、株主総会で今後の経営方針を検討したり質問することだけと言って良い。あの、「口を出す株主」と豪語していた村上氏であっても、投資している相手企業の受付嬢をランチやディナーへ呼び出す権限などないのだ(業界によっては、ディナーどころかラブホテルに呼び出すような真似も当たり前のように行われていると聞くが)。

こうした事情はあれ、それでも会社が株主のものだというレトリックには、企業の経営陣を牽制する効力がある。具体的なあれこれの業務に関する執行権はないと言っても、企業の事業について個々にクレームをつけたり、評価できない役員について動議を起こし議決する権利はもっているのだから、内閣に対する天皇のような立場とは違って、それなりの権限がある(ちなみに、僕は株主総会で取締役を解任されたわけではなく、辞任を了承してもらっただけだ)。

ところで、そこそこの業容になっている企業の場合は、株の持ち合いや親会社の意向といった力が最初から効力をもっているが、中小零細企業の場合は株主総会が形骸化している場合が多い。もちろん経営者一族が多くの株を持っていれば、株主総会など茶の間の団らんと同じことであり、企業にとって実質的な意味はない。しかしそれは同時に、当該企業の行く末について経営者が株主としても責任を負うということなので、実は重大な話となるはずなのだ。業容がしょぼいため、凄いようには見えないだけである。

池田氏も困惑しながら著書の中で述べているように、昨今は「会社はみんなのもの」といった、労働組合の団交会場に立て置かれたプラカードの標語みたいなフレーズを好む人が多いらしく、果ては「会社は株主のものである」と明言することを、守銭奴の代弁であるかのように考える人もいるようだ。これは、確かに「~のもの」という表現が曖昧であることにも理由はあろうが、理由の多くは、単に「会社法の常識を弁えていない会社員」が、日本にハエと同じくらい沢山いるというだけの話でしかない。また、会社がみんなのものだと言われるときの視線の先には、「まんが昔話」に出てくるような農村のコミュニティ、「毎日香」のコマーシャルで描かれたり、「必殺仕事人」の放送開始から5分以内に描かれているような町人のコミュニティ、または吉本新喜劇や松竹新喜劇で描かれている、ご都合主義の特殊な社会主義しかないように思える。株主に対する経営者の姿は、そういう人から見ると、「がんばれ、つよいぞ、ぼくらのなかま、赤道鈴之介」である。

そもそも、自分たちが忌み嫌う「気まぐれで思慮の浅い、余所者の株主」が山ほどいる市場に、自社のファイナンスを投げ出しているのは経営者だ。金だけせしめておいて、あとは好き勝手に、他社のリソースへ依存するほかないマッシュアップだの iPhone アプリだのセカンドライフに進出するだの、気が狂っているとしか思えない事業を展開するような自由や権能は、株を公開した企業の経営者にはないのである。俗に「IT系」と言われる業種では「クリエーティブかつデザイン重視を旨とする、オープンでクラウドなウェブ 2.0 の経営」が好まれるのかもしれないが、パチンコ業界や貸金業界ですら含まれる企業経営の常識から言えば、およそ認められない子供じみたものの考え方であろう。ちょうど、ママゴトでゴザの上に靴を履いたまま上がると女の子に怒られるのを知っているかどうか、くらいのことだと言って良い。

「みんなのもの」という表現に、しばしば近江商人の「三方よし」を読み取る人もいると思う。今風の言い方なら「ステークホルダー」となるが、昨今の経営者が理想として崇める、戦争特需を経て高度成長期をくぐった先進国の下請け企業に、経営理念として「三方よし」と整合する点が多かったかと言えば、僕は強い疑問を覚える。そもそも、近江商人を支えていたモラルだとか一部の仏教思想を、現代の社会システムに敷衍できる条件が揃っているのかどうか疑わしい。なぜなら、経営方針というものに『プレジデント』の雑文や『WBS』でのお喋りよりも強固な、国境や時代を超える普遍化可能性があるなら、それを支えるための必要条件として、昔に比べて人が良くなったとか悪くなったという問題を語っていてはどうしようもない。しかし、高度成長期を引き合いに出すセンチメンタリストたちは、『プロジェクトX』や『黒部の太陽』を物語るか、あるいは、せいぜいバブル時代の投機屋たちが述べた小言を押し頂くのが関の山であり、歴史上の一点に置かれた特殊な事情から抜け出すことを自ら拒んでいるように見えるからだ。そのようなものは、掃いて捨てるほどいるエコノミストや経営コンサルタントと同じで、砲丸投げの測定係にも劣る結果論を書き殴っているだけでしかない。

追補(2009/10/23)

MD を昔から見ている人は特に驚く話でもないと思うが、上記のような話題について池田氏の書いている論説に、僕の思っていることと大きく食い違う点は、あまりない。

例えば、「ものづくり」と呼ばれる近視眼的かつセンチメンタルな視野など、国際貿易の関係において日本がアメリカの下請け国家であった時代が終わってしまった以上、およそ今後は通用しないという点でも池田氏の見解は的を射ていると思う。ゼネコンや製造業の人々が語る時ですら問題はあるが、そもそもIT技術者が語っている場合の「ものづくり」という言葉は、自分たちがウェブサービス企業の末端で何をしているのか殆ど明確にできてもいない者が多い現状にあっては、金属加工業のオヤジが語っているような精神論にすら及ばないレベルの「高度成長期」幻想というノスタルジーでしかないのだ。他人の API やライブラリやフレームワークに依存したままサービスを設計したり、絶望的につまらない「ハック」を暇つぶしにあれこれ考えていたり、何をしていようと、しょせんは労働集約的な単純作業(あるいは経営)だけで食べていきたいという甘えに過ぎない。つまるところ、IT業界で言われる場合の「ものづくり」とは、突き詰めれば「IT業界における単純労働」であって、彼らが夢想するクリエーティブでクールな労働などではないのである。

いや、単純労働は楽しい。クリエーティブな場面もある。

僕は第一パンの工場や、近所の鉄工所や、コンビニ用の包装紙を製造する会社や、特許資料を大量に複写する会社などで、色々な単純労働をしていた。これはこれでやり甲斐はあり、ちょうどトヨタの「カイゼン」や PDCA サイクルのようなものを自分自身で運用していたことがある。

左手で全斤(切っていない食パン)を袋に詰めるための機械操作をしながら、右手で焼き場からコンベアで流れてくるパンの質をチェックしたり、袋詰めしたときの留め具をチェックするには、殆ど左手だけで袋詰めの機械を全て操作する必要があり、それなりに腕の使い方にも色々な反省を経てカイゼンを加えたわけである。

コンビニのお握りを包む袋は輪転機から流れ出してくる原紙を手で裂くように切りながら 200 枚ごとに綴じて大きな袋へ入れる。輪転機を止めると生産量が落ちるのは当然だから、不良品を素早く選り出したり、裂いたときに出るクズが商品詰めの袋にまで残らないよう、200 枚を綴じたら角をつまんで振り落とさなくてはならない。しかし、強くやりすぎると袋の別の箇所が破けてしまうのだ。

こういった微妙な操作や作業を、アルバイトのトップ成績を残すくらいにまでカイゼンしていくことは、同僚である新人あるいは中国からの留学生に成果を教えて共有してもいるため、ただの自己満足ではない。対して、IT小僧どもやIT経営者が語っている「ものづくりプログラミング(あるいは開発、あるいは経営)」などというご託は、こうした実務レベルの観点に照らしてみても、具体的に何を言いたいのか判然としない。要するに、ただのプロトタイプメソッドやアジャイルのことではないのか

というわけで、まだ言い足りない論点が残っているいるかどうかよく分からないけれども、そろそろ「ものづくり」について批評する人たちも多くなってきたので、これだけエキセントリックに取り上げる必要もなかろうと思う(自分でもエキセントリックだと思う<笑)。だいいち、こんなフレーズを真に受けている人の方が少なかったのではないかとも思える。メディアの人々を除けば、一定の人たちだけが書いていたような気もするからだ。

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KAWAMOTO Takayuki

Mr. KAWAMOTO Takayuki
also known as philsci
(birth day: Sep 20 1968)
live in Osaka city, Osaka, Japan.

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