義務教育は何のためにあるのか
2008年03月19日 01:56
「微積分など習っても、俺は八百屋になるんだから無意味だろ」といった話がよくあって、確かに僕も高校時代はミシェル・フーコーとかジャック・デリダばかり読んでいて、口先はともあれ内容はこれとほぼ同じ事を言っていたのです。誰しも自分にとって有意義と思うことを学びたいとは思うのですが、だからと言って、数学よりも公民の学習時間を多くしろなんてことは言いません。
なんでこんなことを書くかと言うと、しばしばひとは自分の経験だけから「自分としてはこう願いたい」という括弧つきで語っている筈の意見を、「べき」論として表現してしまうからです。例えば、下記の一文をご覧ください。
もちろん自分の場合、中学1年の10年後にコンピュータ業界に入ったおかげで、集合論と2進数は多いに役に立った。読み書きソロバンを別にすれば、学生時代の勉強でこれほど役に立った単元は他にないぐらいに思える。そういう意味で、昭和55年以降に中学校に入学したIT技術者は気の毒である。これだけコンピュータが普及しているんだから、数学だけは昭和54年の学習指導要領に戻すべきじゃないかと真剣に思う。
もちろん、この筆者も承知していると思いますが、子供の学習時間は有限です。したがって、優先順位が単に「存在している」というだけでなく、「どの優先順位を選択するか、また複数の優先順位を共存させるならどうやるか」ということまで検討しなくてはなりません。少なくとも義務教育に限って話をすると、あまり適切ではないかもしれませんが、子供が中学を卒業しただけでも食っていけるようにするのが目標であるなら、その目的を満たすような優先順位に従ってゆくと、2進法や集合論を、漢字あるいは民法よりも優先して教えるべきかどうかは自明ではありません。その中学生が、プログラムは書けても、クライアントとの会話に事欠くような日本語レベルしかないのでは、本人の意志はどうあれプログラマにはなれないでしょう。日本語をまともに使えない人に、業務フロー分析やビジネスプロセス設計などできはしません。論理的なパズルを解くのがうまいだけの小僧がつくったガラクタは、システム設計の商品たりえないのです。
再び強調しますが、もちろん、この筆者もこんなことを望んでいるわけではないはずです。しかし、上記のような表現をしてしまうと、読んでいる人の中には、「2進法や集合論だけを学んで中学を卒業した、明日にでもオウム真理教に入りそうなロボット人間」という印象が残ってしまいかねません。一般人の数学に対する「無慈悲」とか(笑、「無感情」といったイメージや、あるいは昔ながらのそろばんを弾く狡猾な小市民というイメージをどうやって避けながら伝えるかが難しいと言えるかもしれません。
また、上記の議論はレトリックの一つとして眺めてみると、「義務教育で」という点にひっかかる人へ印象を悪くしてしまいます。簡単に言うと、「俺は中学で2進法や集合論を会得できたのだから、他人もそれくらいはできて当然だろう」と言っているように見えるわけです。一部のプログラマさんから見れば、単なるいけ好かない小言や自慢話にしか見えない場合もありますし、反対に一定程度の学歴や知識を身につけている人から見れば、その程度で何を「先人」ぶってるんだろうと思わざるを得ません。残念ながら筆者の意図する内容が多くの人に誤解されやすい文章と言えるでしょう。
さて、教育(特に義務教育)の話として、「これこれを教えるべきだ」という個人的な議論が成り立つのかという話も、しておく方がよさそうに思えます。なぜなら、「子供にこれこれをあれよりも優先して教育したい」という話は、結局のところ自分自身がその子供に教えられるのかという話に行き着くからです。昔の貴族や豪商なら、現代にまで名を残しているような学者を住み込みの家庭教師として雇ったのでしょうが、そんなことは不可能でしょう。ということは、ここでも義務教育の話に限ると、税金で公務員としての教師に公的なカリキュラムに準じた教育を施してもらうのがせいぜいのところです。したがって先に引用した意見を書いた人物の理屈では、「これだけコンピュータが普及している」から、2進法や集合論を義務教育のカリキュラムに、言ってみれば教養の一つとして導入してはどうかと述べることになります。
2進法や集合論を理解しておくことがプログラムやネットワークの設計にとって大切だという理屈は、正しいと思います。更にプログラムの設計どころか、結局は XML やスタイルシートもごくごく初等レベルの数理論理学やセマンティクスの応用なので、フロントエンドに携わる人たちにも勧めてしかるべき知識だと言ってよいでしょう。それゆえ、この業界で仕事をしてゆく人たちに、2進法や集合論を「教養」として身につけるべきだと主張することは、傾聴に値すると言って差し支えないと思うのです。
しかし、それらを義務教育で教えるべきだという理屈は間違っています。
その理由として、みなさんにも思い出していただきたいことが一つあります。小学生のときに日本の歴史を勉強しましたね。そして中学時代も日本の歴史を勉強したはずです。もういちど旧石器時代に戻って。また高校時代にも、履修できれば日本史を学べたことでしょう。なぜ日本の歴史を原始時代から現代まで、繰り返し学ぶのでしょうか。なんども繰り返すと頭に入るからでしょうか。それも少しはあるのでしょうが、根本的な理由は、生徒の成長に伴って理解力が向上してゆき、単にこれこれの次にこれこれがあったというだけでなく、何かが起きた事情であったり、関係した人々の判断を(少なくともまじめに勉強すれば)単に覚えるというだけにとどまらず、理解できるようになってくるからです。単に時系列上の記録を暗記するだけなら、小学校で叩き込めば高校であらためて日本史など教える必要はないでしょう。
ものごとを学ぶにしても大別してふたつの分野があり、いちど学べばその知識からスタートしてどんどん前に進んで構わない分野と、人の成長に沿って何度か立ち返りつつ細かい事情や当事者の心境を理解することが大切な分野とに分かれます。そして、技術として前者のような分野をたくさん勉強することはシステム開発者にとって重要かもしれませんが、日本の教育は発展途上国のように、特定の産業を担う人材育成のためだけに存在しているわけではありません。しかるに他の分野と比較されて優先順位が決まるのは当然ですし、仮に数学という分野の中だけで優先順位を議論するにしても、数学そのものはコンピュータをうまく扱えるような人物を育てるために存在しているわけではありませんから、コンピュータ時代だからといって中学生に2進法やフーリエ級数を教えることが適切なのかどうかは、判然としないでしょう。
ここまで参照してきたような理屈は、何もコンピュータオタクだけの視野の狭さではありません。 哲学の世界にも、いわゆる big question の類を子供に考えさせようといった企画(こういうことを「ココロミ(試み)」と表現する語感センスは、NHK か労働組合の用語みたいでいつも違和感を覚えます)があり、逆に広い視野を押しつけて哲学かぶれの子供を作ろうとする人々がいます(そもそも哲学は小学生だろうと中年だろうと、やらねばならぬという心境でやるものであって、教育されて志すものではないと思うので、このような教育という発想は哲学とは何なのかという点で根本的に間違っていると思う)。どのような分野であれ、自分たちがかつて学んだり考えたことを他人にも学ばせ考えさせたいという、或る意味で非常に傲慢な野望でもあり、或る意味では非常にセンチメンタルでもあるような願望を表明する、ナイーブな大人はたくさんいます(一昔前までは、そうした意図をどちらをも含んでいるような合い言葉があって、それは「旧制高校」と言われました。しかし現代では、表向きは任意で入学する高校や大学に親はその種の期待を持っておらず子供にも期待していないので、代わりに先生がよろしくやってくれる義務教育に期待するという、これまた非常に情けない親の実状を表しているとも言えるでしょう)。
義務教育はその目的や性質からして最大公約数的な内容にならざるを得ないと考えるので、僕が中学生に期待することは、義務教育という建前の道具をきっちり習得しながら、そんなもんはどうでもよいと思うくらいのものを同時に身につけようとする冷静さと言ってよいかもしれません。それは、別に株式投資の経験でもよいだろうし、日本最年少で司法試験に通るための勉強でもよいでしょう。あるいは中学生でありながら IT 企業を立ち上げて、教師の年収を 100 倍かけても足りないくらいの資産を築くとか、中学生のケータイ小説家になるとか、果ては中学でどこかの組員の舎弟になったりするかもしれませんが、自分のやりたいことと殆ど関係のない義務教育だってしっかり受けるというのが、実は粋な中学生なのではないかと思う。
